函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第4編 産業

第3章 鉱業

第2節 鉱業のあゆみ−砂鉄

3、砂鉄の調査

開拓使による鉱物資源の調査

 御雇外国人ホーレス・ケプロン(開拓使最高顧問)のもとで地質・鉱物調査、測量を専門としたベンジャミン・スミス・ライマンは、来日翌年の明治6年(1873年)2月より、ヘンリー・S・モンローと、日本人鉱業伝習生を伴って道内各地の炭山や鉱脈を調査している。渡島は勿論、郷土の砂鉄についても詳細な調査が行われている。ライマンは、この調査報告を同年12月25日、開拓次官黒田清隆に提出しているので、関係部分について抜粋記述することとする。
 
 『沙鐵(砂鉄)』ライマン氏地質測量初期報文より
                   一八七三年十二月二十五日
 本島(北海道)に於て、是迄夥多(かた)発見せる鉄鉱は、唯(ただ)「マグ子(ネ)チッキ」鉄沙のみにして、噴火湾の南岸、就中(なかんづく)、山越内(八雲町)近傍(きんぼう)に多し。また、函館の東半島の東端なる古武井近傍(きんぼう)にもあり。然(しか)れども「マグ子(ネ)チッキ」鉄沙は、少しずつ各所の海浜河岸及び河底の沙中にもありて、其痕跡実に沙地(砂地)として有らざるなし。但、「マグ子(ネ)ット」鉄吸(磁石)を以て之を分けたれば肉眼にて見るべからざるのみ。
 是多く、本島に散在せる火山石中に混在するものにて、その石の欠損せるに従い、砕けて沙鉄(砂鉄)となり、其内の重厚なるもの潮波河水に洗浄せられ、相聚集し以て此重層を成せしなり。<…以下、略…>
 「古武井の鉄沙」  函館より東の方二七英里(一一里)なる古武井村の海浜には、容易に鎔解すべき沙鉄の層ありて、其最も厚き所は、凡(およ)そ二尺に及べり、然れども夫(それ)より漸(しばら)く距(へだて)るに従い、其層の薄き事刀刃の如きに至る。区域の全長は凡六〇〇碼(ヤード)なれども、その層は殆(ほとん)ど皆(仮令(たと)えば其六分の五は)一寸、或いは夫より薄し。故に恐らく総計二五〇立方碼(ヤード)の沙ありて、其内純粋の鉱は恐らく、二〇〇立方碼(ヤード)即ち四〇〇屯許(ばかり)にして、二九〇屯の鉄を含むなるべし。
 「古武井鎔鉱炉」  古武井村より南西の方、凡そ一英里(半里)「ヲツキ」川口に、稍(やや)富る同種の鉄沙あり、今を距る一五年前、該所及び村中に於て鉄鉱を採集し、武佐川の山手、半英里(一〇町)の地、即ち今廃墟となれる鎔鉱炉に送りし事あり。然れども鉱を鎔(とか)すの挙(くわだて)は、其初年に於て廃棄せんと云う。
 「古武井の砂鉄の移出と埋蔵量」  凡そ一〇年前の頃(一八六三年頃)、此沙鉄一〇石許(恐らく一屯の三分の二)を積みたる舟一艘を、前に述べし山越内(八雲町)近傍の製鉄所に送りし事あり。是、該所の鉱と混和せんが為なりと。其他、製沙の業に着手せし事なし。〇此地沙層の富る部分は、凡そ直径三〇碼(ヤード)(一五間)にして中央は二尺八寸の厚さあり、而(そ)して、恐らく七〇〇立方碼(ヤード)を含み、その内、五〇〇立方碼(ヤード)、即ち一千屯は純鉱なるべし。以て、七二五屯の鉄を含むならん。〇此地より古武井の方へ四〇〇碼(ヤード)許は、沙中に鉄少なし。是、前時採集に堪(た)えず為せしものなり。而して、其広さ、二〇碼(ヤード)許にして、厚さ平均恐らく一尺許なるべく、都(すべ)て三千六七七立方碼(ヤード)あり。以て純鉱二千立方碼(ヤード)即ち四千屯にして、鉄二千九〇〇屯を含むなるべし。然らば、「ヲツキ」鉄沙の分量は都(すべ)て鉱の量五千屯にして、鉄三千六五〇屯を有すべし。〇然れども、此等の見積りは都(すべ)て目撃上の推算にして、未だ其見本に就て試験せしには有らず。〇此地方に於ては、如此(このごとく)、鉄鉱のなお多く、凝固せる層あるを見聞せし事なし。
 「シリキシナイの砂鉄・鎔炉(仮溶鉱炉)」  函館より二五哩にして、古武井村に隣れる海岸の「シリキシナイ」にも沙鉄の小層あり。凡そ長さ一〇〇碼(ヤード)、広さ(幅)二五碼(ヤード)許にして、其最も厚き所は一尺三寸許なりと。然らば、一〇六立方碼(ヤード)許を含むなるべし。〇其沙は甚(はなは)だ鉄に富るとも見えず、恐らく総計純鉱一四〇屯を有すべし。〇凡そ一七年前の頃(一八五六年頃)、「メノコナイ」川口より二英里(三〇町)許(る)上に鎔炉を設け、三ケ年間此鉄沙の製造に従事せしと云う。其炉は長方形にして長さ七尺、幅四尺、高さ五尺にして、泥土を以て築造せり。是内地の南部地方に於て用るものなりと。〇其鉄最良ならざれども、軟かにして可(か)なり良品なりと。但、鉄鉱の分量些少(さしょう)なるより廃棄せしなりと云えり。
 [一碼=約九・一センチメートル 一英里=約一・六一キロメートル
 一尺=〇・三〇三〇メートル 一寸=〇・一尺]
 
 以上、ライマンの砂鉄についての報文は、まず、噴火湾南岸と東渡島海岸について概括しており、噴火湾については、特に山越内近傍(きんぼう)に多いと報告している。なお、指摘している地域は、長万部町国縫から八雲町地内にかけての海浜砂鉄鉱床で、後、北海道工業が開山(昭和24年から52年まで一時期休山)、140万屯(同社報)を生産しており国縫鉱山と呼ばれた。東渡島海岸については、古武井を中心に広く分布していること。砂鉄の性質が磁鉄であること。火山活動の所産であり漂砂堆積した鉱床である等、より詳細に報告している。
 調査については「古武井村」古武井川以東の海浜、「ヲツケより古武井川まで」字日ノ浜一帯の海浜、「シリキシナイ」字中浜の海浜の3か所に区分して、鉱床の長さ・幅・厚さを測定、純鉱・製鉄の量まで積算している。その量は「古武井村」400トン・290トン、「ヲツケより古武井川」1,000トン・725トン、「シリキシナイ」140トン(100トン)としている。また、古武井溶鉱炉の存在・概略を記すと共に、仮溶鉱炉についても触れているが、こちらの方は溶鉱炉とせず『鎔炉』として規格(長さ・幅・高さ)材質(泥土?粘土か)を記し、さらに、タタラ炉であることを明記「是内地の南部地方に於て用るものなり」している。
 なお、この報文の中で注目したのは、「此沙鉄一〇石許を積みたる舟一艘を、前に述べし山越内近傍の製鉄所に送りし事あり」との記述である。凡そ10年前の頃(1863年頃)とあり、文久3年、古武井溶鉱炉は廃棄となっている。恐らく、高炉稼働のため相当の量の砂鉄を集積していたのであろう。このため、砂鉄層が薄くなっているとも報告している。砂鉄の移出先は、同ライマン報告文に次のように記述されている。
 
 「奥津内(現八雲町浜松)の打鉄炉」  海岸を距る半英里山越内より、一英里半(一里)なる奥津内の旧打鉄炉は、凡そ一〇年前(一八六三・文久三)始めて建築し、二ケ年間作業して一ケ年半中絶し、更に四、五年間作業し、遂に三年前に廃墟となる。○同所に二個の「フローマリー、ホルジ」炉の名ありて、水車仕掛けの大鞴(フイゴ)を備えたり。<…以下略…>
 
 この炉の詳細な構造については不明であるが、報文には、起風装置に水車を用いており、洋式を取入れたものと思われる。鉄の生産は3日間で5千800ポンド(700貫目・約2.6トン)とあるので生産量から見れば平均的なタタラ炉と同じ位であろう。恐らく原料の砂鉄が不足したため古武井から取り寄せ混ぜて使用したと思われる。八雲町史には、「経営者佐藤某は千両箱を積んでこの事業を行ったと伝えられているが、実際に操業したのは6、7年に過ぎず、必ずしも良好な成果を収めたとは言えないようである」と記している。