函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第4編 産業

第3章 鉱業

第2節 鉱業のあゆみ−砂鉄

1、五稜郭と古武井溶鉱炉

 同じ、1854年(安政元)には、蝦夷地巡視(後の箱館奉行)を命ぜられた堀利煕(ほりとしひろ)、村垣範正(むらがきのりまさ)がこの豊富な砂鉄に目を着け、「熔鉱炉・反射炉」の建設を提唱している。これは、洋式の近代的な設備であり、武器の生産−とりわけ大砲の−を目的としている。タタラ炉とは比較にならないほど、理論的にも技術面でも難しいものであり、また、建設には莫大な費用と日数の要するものである。当時、これに取り組んでいたところといえば(計画も含め)反射炉は佐賀、伊豆韮山、山口萩、薩摩、水戸。熔鉱炉では鹿児島、釜石(岩手県)の2箇所のみ、という大プロジェクトなのである。
 ではいったいなぜ、幕府の要人がこの北辺の地に、このような国家的な大事業である熔鉱炉・反射炉の建設を提唱したのであろうか。
 それには幕政をゆるがす国内、国際情勢があったからである。
 1800年代に入り、ヨーロッパの国々の国交を求めての度重なる来航、そういった国際的なうねりや、外国の情勢に目を向けている蘭学者、識者らの動き・開国論が、200年以上も続いた幕府の鎖国体制を揺るがせていた。そんな中で、開国への決断を余儀なくさせたのは、1853年(嘉永6)浦賀に来航したアメリカの提督ペリーの、大統領の親書を携え巨大黒船4隻を従え、武力行使をも辞さぬ強硬な開国交渉であった。
 『泰平のねむりをさます じゃうきせん たった四はいで夜も寝られず』−上等のお茶(上喜撰)を4杯ほど飲んだため興奮して眠られないと謡いながら、長い鎖国に浸り切っていた幕閣が、ペリー率いる黒船(蒸気船)たった4隻で、その対処に狼狽(ろうばい)している様を揶揄(やゆ)した、当時の世相が窺える狂歌(きょうか)である。
 1854年(安政元年)幕府首脳は壌夷派を封じ込め日米和親条約を結び、伊豆の下田、蝦夷地箱館を開港した。追って、その年にイギリスと日英和親条約、ロシアと日露和親条約(1855年2月7日)、年が明け日本とは300年の交易があったオランダとも日蘭和親条約をそれぞれ締結したのである。
 210余年の鎖国から目覚めた幕府は、西欧諸国の実情、科学や産業の発達、軍備の近代化や外交・植民地政策等を目(ま)の当たりに見せつけられるとともに、自国の防備強化の緊急性を改めて認識しなければならなかった。
 とりわけ蝦夷地においては、これまでも南下してくるロシアとの間の領土問題や、1807年(文化4)のロシア人の利尻島侵入、中川五郎治のオホーツク連行、1811年(同8)のゴロウニン事件・報復としての高田屋嘉兵衛の拿捕など局地的な紛糾がたびたび起きていた。幕府もこれに対して、松前藩に任せておけず、箱館に奉行を設け蝦夷地千島列島樺太(サハリン)の調査や、必要な地域は幕府の直轄地とし津軽・南部藩に警備を命じるなどの対策を講じてはきた。
 しかし、今度は(1854年)箱館が開港されたのである。ロシアに加えて、防備の手薄な蝦夷地に、アメリカやヨーロッパの列強がやって来るのである。箱館の開港が決まった翌年、1855年(安政2)幕府は、松前藩はもちろん津軽・南部に加え仙台・秋田の各藩にも場所割りを指令し蝦夷地警備の命を下した。
 幕府は、さらに、竹内下野守・堀織部正(利煕)両箱館奉行から提出された、箱館港防御のための軍事施設を速やかに整備充足して欲しい旨の意見上申『箱館表御台場基外見込之趣大意取調奉伺候書付』を取り上げ、箱館港の入り口に「弁天岬砲台」を構築し(計画では築嶋、沖之口などにも)、地形上外国船の攻撃を受けやすい箱館御役所(奉行所)は亀田村に『五稜郭(亀田役所土塁等)』を築造移転することとした。そして、これらの設計に当たったのが蘭学者であり諸術調所教授役の武田斐三郎である。
 武田斐三郎はこの設計・構築を進めるとともに、これらに装備する大砲(砲身)の鋳造、あるいは軍艦装甲の鉄板(ブリッキ)を生産するために、古武井に洋式高炉(熔鉱炉)と反射炉を築造することとした。後述するが、反射炉については、予算・設計段階まで進められたが、ついに日の目を見ることがなかった。
 1858年(安政5年)に完成(年代については異論がある)したといわれる『古武井熔鉱炉』は、このように、『五稜郭』構築と関わりの中で、幕末の国際情勢・北辺警備という特殊な状況を象徴する極めて重要な産業建造物といえよう。また、この築造の、近代製鉄業の先駆けとして果たした役割も見逃すわけにはいかない。
 なお、古武井熔鉱炉と深くかかわる、この五稜郭について、函館市史・松前町史等を編纂した東北学院大学榎森進教授は、北海道新聞函館版1997年1月1日号に「五稜郭歴史的意義」と題して次のような論文を寄せている。古武井熔鉱炉築造の歴史的な背景を知る上でも興味ある論文であり、また、五稜郭についての認識を深める上で大変参考になると思うので、その全文を記載することとする。
 
五稜郭の歴史的意義
・開国に備え築造・幕末の特殊な状況象徴
 五稜郭といえば、多くの人は“箱館戦争”を思い起こすにちがいない。最近発刊された「新版・日本史辞典」(角川書店)でも、「五稜郭」については、依然として、“箱館戦争の舞台”と言う点に力点を置いて説明しているし、「五稜郭の戦い」という項目をも設けて「箱館戦争とも。戊辰戦争中最後の戦争」と記しているのであるから、それも無理からぬことである。
 しかし、五稜郭の築造そのものは、箱館戦争と全く関係がない。五稜郭が現在の函館市域に築造された最大の要因は、安政二年(1855)の箱館開港にあった。この箱館開港はいうまでもなく前年三月に調印された日米和親条約に基づいて開港されたものである。幕府は、箱館開港が決定するや同年六月二十六日、松前藩より箱館および同地より五~六里四方の地を上知し(箱館における外国人の遊歩区域が五里四方とされたことによる)六月三十日箱館奉行を再置して勘定吟味役竹内保徳箱館奉行に任じ、これらの幕領地を箱館奉行の「御預地」とするとともに、同年七月二十一日、目付堀利煕(ほりとしひろ)を同奉行に任じ、箱館奉行を二人体制として箱館開港に備えた。
 五稜郭の築造が具体的に検討され始めたのは、それから二月後のことである。安政元年九月以降のことである。堀利煕(ほりとしひろ)を中心とする箱館奉行が老中阿部正弘に提出した上申書によると、その主な理由は、当時の箱館は、市街地が箱館山の麓に密集し、市街地の東端から亀田村に至る地は海に挟まれた僅か三〇〇間ばかりの砂地で、もし外国の軍艦に攻撃されたならば、住民は逃げ場を失い、箱館市街は一瞬にして「一炮粉韲(いっぽうふんせい)の死地」となるばかりか、箱館御役所・御役宅(幕吏の住宅)は海岸の近くにあるため、外国人が箱館山に登り一望すれば、市中は勿論、御役所・御役宅とも「一目に見透かされる」ので、箱館御役所と役宅は速やかに亀田村辺へ新築・移転すべしというものであった。安政元年十二月、老中が堀利煕(ほりとしひろ)等のこうした計画を全面的に許可したため、以降箱館奉行五稜郭の築造に向けて全力を注いでいった。
 ところで、広義の五稜郭の築造工事は、①掘割・土塁(五稜郭)の工事、②五稜郭北側の地への役人宅新築工事、③五稜郭内への御役所(いわゆる箱館奉行所)の三種からなるが、このうち最初に着工されたのが五稜郭の工事である。当初の五稜郭の築造プラン(設計者は蘭学者で諸術調所教授役の武田斐三郎)は、西洋の「塁営台場」を模倣し、二重の掘を設けて各両岸とも総石垣造りにして、五カ所に「御台場」を設置して大砲を備え、且つ非常時には侍・市民ともに廓内に逃げ込める「根城同様」の機能をもつものとして設計されたが、二重の掘と総石垣造りは莫大な費用がかかることから、安政四年(1857)七月、総堀を掘割しその揚げ土で一重の土塁を築いて芝付けをし、御役所・役宅を新築・移転した上で石垣を築くことに、工事内容の大幅な変更が行われた。以降この方針で工事が急ピッチで進められ、七年後の元治元年(1864)四月完成した。これが現在の五稜郭の原形である。
 一方、役宅の新築工事も同年完成し、同年八月支配役向役々が五稜郭北側の新役宅への移動がほぼ完了し、個々に五稜郭とセットにした新たな侍屋敷ができたのである。さらに、五稜郭内のお役所の新築工事は、文久元年(1861)から着手し、秋田の能代で下拵えをした上で、資材を能代から函館に廻漕し、翌年秋から五稜郭内に建築を開始し、元治元年完成。同年六月十五日、箱館奉行小出秀実が新役所に移り、新役所の正式名称を「箱館御役所」とした。なお、五稜郭の諸工事が付帯工事も含めて総て完了したのは、慶応二年(1866)のことである。
 亀田川の掘割普請工事も含めて、この五稜郭に関わる三種の工事に要した費用は、一〇万四千余両であった。
 幕末の財政難の時期にこれだけの費用を投じて敢えて箱館市中からはなれた亀田の地にこうした西洋式の「塁」を築造しその中に御役所を新築するとともに、その北側に新たな侍屋敷を設営した理由はどこにあったのか。当時の関係記録から見る限り、それは「開国」という新たな状況に直面した幕府が、諸外国に対して「国威」を示す必要に迫られたからであったことは否定できない。それにしても、この西洋式の「塁」は、当時西欧の世界では、もはや近代社会に必要な構築物ではなく、中世に機能したものに過ぎなくなっていたことや、五稜郭完成からわずか二年にして幕府が崩壊したこと等に目をやるならば、この五稜郭は、まさに世界史の大きな流れの中で幕末の日本がおかれた特殊な状況を象徴する大切なモニュメントであり、それだけに、その歴史的意義は大きいと思うのである。
(北海道新聞 1997年1月1日 東北学院大学教授 榎森 進)
 
 古武井熔鉱炉が存在したことは、道南でも古くから広く知られていた。
 大正3年の尻岸内村沿革史には「今より五五~六年前、徳川幕府の下に代島剛平なるもの、古武井川中流付近の平地において深さ一丈(3メートル)方七間(12.7メートル四方)の煉瓦石の基礎に依り、高さ地上八間(14.5メートル)の熔鉱炉を造り、二〇〇人の人夫を連日二年間使役し製鉄に従事せしも成績思わしからずついに廃業せりと言う」と記述されている。また、昭和14年版の「渡島の史跡と景勝」という観光パンフレットには、熔鉱炉跡の写真が添えられ「箱館奉行諸術調所教授役武田斐三郎(成章)安政三年古武井に地を相し煉瓦製造所及び仮溶鉱炉を設け、同年溶鉱炉及び反射炉の建築に着手し砂鉄を採りて鉄を製造す。経営数年ならずして廃止したり。この地二〇間四方を画し丘岡となり雑草繁茂せり。当時の製鉄として四寸角大の長さ九尺位の遺留品を在したりと。斐三郎は五稜郭及び弁天岬砲台の築造者にして著名なる蘭学者なり」と解説されている。古武井熔鉱炉についてはこの時代、いわゆる名所旧跡として知れわたっていたと思われる。