函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第4編 産業

第3章 鉱業

第1節 鉱業のあゆみ−硫黄

4、古武井硫黄鉱山の操業(後期)

 本町の字古武井、曹洞宗高聖寺の山門近くに、「朝田鉱山雪害横死者之碑」と刻まれた(正7位勲5等榊原勝行書)石碑が建っており、裏面には横死者男11名、女18名の名前が記されている。
 
明治四一年三月八日変災
松野茂太郎・妻トイ・長女チヨ・二女タカ、小野藤吉・妻タケ、室岡善作、松浦仲吉妻マキ・長女トク、石川長松長女ヒデ・長男喜代治、近江七五郎妻ソマ、佐藤謙六、遠藤傳吉・妻ハナ・長男寅吉・長女フク、大定次郎妻テル・長女タマ、今野用蔵三男用一、吉田春蔵・妻サキ・長女キエ、藤本安見・妻フサ・長女寅見、棟方清吉長男倉吉・長女フク   発起者建之
 
 この古武井鉱山の惨事は石碑に刻まれている通り、明治41年(1908)3月8日横浜の朝田又7が、押野常松から鉱区を譲り受け操業したいた期間(明治38年5月から同41年11月まで)に発生した災害で、古武井鉱山操業の歴史上未曾有の大惨事である。
 明治41年3月8日、この年は稀にみる大雪の年であった。2月も末の雪は湿気を含みずっしりと重く鉱山の集落を覆っていた。大雪崩は突然、急斜面の双股(ふたまた)と旧山(きゅうやま)を襲った。朝田鉱山労務者の笹葺き・笹囲いの堀立小屋、6戸建て長屋1棟、5戸建て1棟、4戸建て1棟、1戸建て3棟、計18戸はあっという間に雪崩に圧し潰され、と同時に火災が発生した。
 双股の雪崩の発生を知った請願巡査(鉱山事務所・村役場の請願により、鉱山には巡査が配置されていた)小林捨次郎は急遽、朝田鉱山事務所に急を告げ警鐘を乱打し救助を求めたが、労務者たちは積雪6尺を超す状況から、異変を知りつつも身動きできない状態にあり20数名が集まるに過ぎなかった。
 小林巡査は、鉱山事務所の事務員の応援も求め、現場に駆け付け労務者たちを指揮し、2人の遺体を掘り出し、家屋の下敷きとなっていた者9人を救助、益々激しくなる吹雪の中、長屋で身動きの取れなくなっていた老人、婦女子130名を鉱山事務所・倉庫に避難させる。だが、惨事はそれだけにとどまらず旧山の住宅も雪崩に襲われた。小林巡査は休む暇もなく山縣鉱山の労務者30余人の応援を得、途中倒壊した家屋の下敷きになっていた2人を助けだし現場へと急いだが、倒れた家から出火、激しい風雪に火勢は衰えず手の施しようもなく負傷者を1人救助するのが精一杯、近くの老人、婦女子70余人を避難させた後は、火の衰えを見守るばかりであった。
 鉱山からの急報を受け、函館警察署戸井分署長、萩田七十次警部が現場に到着したのは、既に鎮火し遺体を収容した後であった。萩田警部は鉱山事務所や第4部長(直属上司)と協議の上、遺体を大滝沢で茶毘(だび)に付した。犠牲者(圧死、焼死)男11名、女18名、その多くが年配者であり幼い子供らであるという痛ましい惨事に、参列者は慟哭した。
 報告を受けた函館警察署からは、吉村将三警部が3名の巡査を引き連れ入山し、罹災者や死者の遺族らの救援について鉱山事務所と協議するとともに、政府へも報告をした。この大惨事に対して、朝田鉱山は、葬儀費用の全額会社負担、負傷者の医療費支給及び全快まで家族に対する食料の給与、遺族には死者の受けていた日給の100日分を一時支給するなど、罹災者・遺族の救援措置に全力を尽くした。異常気象に因る自然災害ということを考慮すれば、朝田鉱山のとった措置は、この時代の企業の価値観から見て、極めて良心的だったと評価されていいのではないか。なお、理由は定かではないが(この事件が原因なのか)この年11月、朝田は鉱区権を押野彊に譲渡し、以後再び押野鉱山となる。その後、朝田の名前を鉱山事業に見ることはない。
 この年、明治41年(1908)8月5日、天皇陛下から、朝田鉱山災害罹災者の遺族に対して、御救恤(きゅうじゅつ)金が御下賜され、陛下御名代として北絛侍従が派遣された。勅使(北絛侍従)は戸井分署長萩田七十次警部が先導し、第4部詰米田甚太郎警視、函館警察署長山本鎮八郎警視が随行を勤めた。北海道の僻地の災害、しかも労務者の罹災に、天皇陛下の御名代が派遣されるほど、この惨事は全国的な同情を集めたのであろう。また、見方を変えれば鉱業・硫黄産業がそれだけ国益を担っていたともいえるのではないか。