函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第4編 産業

第3章 鉱業

第1節 鉱業のあゆみ−硫黄

4、古武井硫黄鉱山の操業(後期)

 押野・山縣鉱山の硫黄鉱石には、その層内に、広葉樹、欅(けやき)などの葉を見ることがある。この鉱山の硫黄は、水底に堆積した鉱層でいわゆる沈殿鉱である。このような鉱床では、硫黄分を含む粘土層内に堆積過程に混入した陸生植物の化石をしばしば見ることができる。
 この鉱床の成因を推察するに、東渡島一帯の火山活動が活発な時代(洪積世のころか)に出来た湖(カルデラ)の底に、夥しい箇所より硫化水素・硫黄を含む熱泉が噴出して粘土物質を挟み沈積し、本鉱床を形成したと推測される。なお、鉱層の厚さが不定なのは水底の地形が複雑、起伏があったためと推察される。
 水が減退後鉱床は、凝灰質集塊岩に覆われる。硫化水素・熱泉の噴出はなお余勢を残し、地殻変動で生じた地層の亀裂・断層に沿い上昇し純度の高い(黄色の)細脈を形成する。さらに硫化水素・熱泉の噴出は、凝灰質集塊岩の軟弱な部分に貫入し、通称、鵜の目・鷹の目と呼ばれる不規則な小さな塊状や脈状の硫黄鉱をつくる。これらは、いわゆる第2期の生成と見てよい。また、下盤中にみられる硫黄の鉱染的細脈は、鉱床生成当時より引き続き生成活動を続けてきたものと思われる。
 
ライマンの報文より
    (1873年12月25日東京芝にて「呈」開拓次官黒田清隆)
 古武井の硫黄は、一つは武佐川(古武井川)なる硫黄の旧製造所にあり、海岸なる武佐川口に近き、古武井村より六キロメートルないし八キロメートルなり。また一つは、本年発見せし同川の分流北西一・六キロメートルの地にあり。この硫黄は硫水より出たるものにして、甚だ純粋なるべし。然れども、他所の黄色なる硫黄とは全く異にして灰色なり。両所の硫黄層は非常に不斉(ふせい)なり、その旧坑は所謂(いわゆる)「ジリフト」横坑にして長さ二二〇メートル、厚さ三〇センチメートルの脈をなし、小塊に結晶せる黄色硫黄(更に灰色のものなし)を含めり。然(しか)れども、その尾端に至るに従い、その量次第に減少すと。坑口に近き外側、凡(およ)そ厚さ六〇センチメートル許(ばか)りなる灰色硫黄の一層あり。三五度に傾き北八〇度東に向かい、その長さ三・七m許(ばか)り露出せり。また、坑口に灰色硫黄の厚さ一・二メートルの層あり。然(しか)れども、往時(当時)の工夫はその脈内部に達せずとし、その後も多く探討せざりし由(ゆえ)なり。その故は一一年前の頃、これを製して函館に送りしも、その色の異なりにより売れざりしをもってなりと。兎(と)も角(か)くも、この層は多分硫黄水の流れたるか、 或いは池中に堆積したるものなるべければ、厚さも甚だ一様ならず。また、広くもあらざるべし。北西一・六キロメートルの所に於て、新たに発見せし灰色硫黄も、また同様なるべし。但(ただ)しこの層は小なる山谷の岸頭に沿うて露出し、長さ三〇メートル高さ三・七メートルに及ベるあり。而(しこう)して、その半ばは純粋にして、半ば汚土と混じりたり。恐らく全括して、三分の一は純粋の硫黄ならん。而(しこう)して、その硫黄の総量を二百トンとして、また旧坑にあるものを二五トンと算せば、謬(あやま)りなかるべし。然(しか)れども、その量はこの計算よりも遥かに多からん。
 本年巡回せし、各所より得るべき硫黄の総額は、五百トンなるべく思う。地図成功せば、これらの計算上に甚だ緊要なる差異を生ずべし。<明治12年(1879)2月 開拓使刊行 開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文抜粋>
 
ライマン Benjamin Smith Lyman(1835~1920)アメリカ人
・開拓使雇地質学者、鉱業技師長
・ハーバード大学卒業後、パリ鉱山学校とドイツのフライベルグ国立鉱山大学へ留学
・1872年(明治5年)開拓使の招きで来日、3年間北海道の地質・鉱山等を調査
・石狩・幌内炭田を発見、『北海道地質総編』『北海道地質要略図』他40の報文
・幌内−手宮間の鉄道敷設の功労者、また、多くの地質調査技師を養成する。
・1876年~1879年 内務省後に工務省の嘱託、新潟油田などの調査をする。 
              *文中の単位はメートル法に換算する