函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第4編 産業

第3章 鉱業

第1節 鉱業のあゆみ−硫黄

1、古い歴史を持つ恵山硫黄鉱山

[古い歴史を持つ恵山硫黄鉱山]

 特異な山容で噴煙を上げ火山活動の活発な恵山は、硫黄の鉱山(ヤマ)としても古くから知られていた。その歴史は遠く明和元年頃(1764年頃)の採掘が記録に残っている。おそらくは北海道最古のものと思われる。
 恵山の硫黄は、地下の硫黄が火山の高熱(116℃以上)により熔融体(ガス状)となり噴気孔より噴出し凝固した昇華硫黄鉱で、純度が極めて高い。爆裂火口付近には数多くの噴気孔があり周囲には硫黄が常に堆積してくる。しかも、簡単な道具で採掘できる。従って、古くから多くの人々が繰り返し採掘にきた。硫黄の堆積量は噴気孔の活動により異なるが、掘り尽くしても噴気孔からガスが噴出している限り、年数を経ると硫黄は再び蓄積する。鉱山までは、海辺から4キロ足らず、海路をとれば箱館までも容易という距離的な条件にある。加えて、純度が高く需要の多い硫黄であってみれば、多くの人々が採掘にやって来たのは当然であったろう。
 ここでは、恵山硫黄鉱山の採掘・操業の変遷、(1)幕府・松前藩時代、(2)明治・大正時代、(3)昭和・戦後の時代に分け、それぞれの特筆すべき事項と時代的背景に触れてみたい。
 
恵山硫黄鉱山の変遷
明和元年頃(1764)
 箱館の人、白鳥新十郎アイヌを使役して採掘するが事故により同年7月中止する。記録に残る最古の採掘である
天明3年~6年(1783~1786)
 福山の藤七・理三郎、松前藩の許可を受けて採掘する。
 運上金35両、但し天明3年は願い出により運上金20両に減額された。
天保12年(1841)
 箱館の商人、東屋が採掘する。
天保14年~弘化2年(1843~1845)
 箱館の商人、大〆(ダイシメ)が資金を出し3年間採掘する。
 松浦武四郎蝦夷日誌、弘化2年の記録によれば、惣(すべ)て当山の硫黄は三尺より四尺、深き処(ところ)八尺程土中に有之(これあり)候よし。実に左様にぞ思われける様に御座候。と硫黄の埋蔵状態のよいことが記述されている。
弘化3年~嘉永元年(1846~1848)
 箱館の商人が3年間採掘する。
安政元年頃~2年(1854~1855)
 根田内の三好(淡路屋)又右衛門(後述)採掘を再開する。
 最初の採掘は天保11年(1840)か?
安政2年(1855)
 恵山山麓の住人、佐吉の請け負いで採掘する。
安政3年(1856)
 箱館の商人、佐吉より権利を譲り受け採掘する。
 坑夫20~32人を使役し年に精製品100石余りを生産する。
明治元年(1868)
 函館の商人、矢川屋四郎左衛門、硫黄の価格低迷により採掘を中止する。採掘を始めた年代、年数は不明である。
明治3年(1870)
 津軽、弘前の宮本善右衛門、開拓使の許可を受け採掘する。
 採掘高の1割を納税するという条件で開拓使許可
明治4年~7年(1871~1874)
 根田内の三好又右衛門と桂井忠平が共同で採掘する。
 毎年100石余りを生産したが、天災により精製硫黄を焼失損害甚だしく操業維持困難となり、明治7年採掘を中止する。
 百石(4千貫、15トン)1石当たり価格3~4円
明治5年(1872)
 函館の商人、鍋屋と根田内の住人が共同で採掘する。
明治8年~13年(1875~1880)
 函館の資産家、泉藤兵衛(後述)三好又右衛門より権利を譲り受け5か年間採掘するが採算が取れず中止する。
明治19年(1886)
 根田内の大坂力松、泉藤兵衛より借区して採掘する。
明治20年~23年(1887~1890)
 神奈川県の竹内綱他1名、泉藤兵衛より鉱区を譲り受け、精煉場等新設し大規模な操業に入り収益を上げるが3か年間で休業する。
 恵山硫黄鉱山に初めて中央(本州)資本が参入する。
 
[竹内綱の操業の状況]
 借区面積・明治21年借区22,248.75坪(73,421平方メートル)
 採掘方法・人力、鶴嘴(つるはし)・唐鍬(とうぐわ)を用いて採掘する。
 精煉方法・精煉窯は日本旧製法を斟酌(しんしゃく)(踏襲)したもので口径1尺8寸深さ1尺6寸の炎釜10個を配列した窯に流れ釜が2個付いた構造である。
   ・炎釜に鉱石を入れ窯で過熱溶解、温度を下げた後布袋で瀘(ろ)過し不純物を取り除き桶に入れ結晶させ、残滓を分離させ製品化する。
 産出量 ・鉱石4千貫(15トン)につき製品硫黄1千200貫(4.5トン)歩留まり3割
 燃料費 ・鉱石1千貫を精煉するために石灰100貫、価格8円50銭の費用を要する。薪材は費用としてみていない。
 販売価格・製品硫黄1千貫(3.75トン)325円
   ・主として、華僑が仲買して横浜から香港に輸出する。
 運  賃・精煉場より函館までの船賃等、1千貫(3.75トン)に付き60円
 坑夫賃金・掘採夫・運搬夫とも、1日の日当30銭(ひと月延べ175人)
 坑夫給与・1人、1日賄金10銭(白米1升・醤油・味噌・惣菜代として)を鉱山事務所より支給する。
 坑夫工程・坑夫1人、10日間の掘採高50貫(187.5キログラム)とする。
 従業者総数・役員3名、坑夫・精煉夫等総数38名、3か年間増減なし。
 
明治28年(1895)
 横浜の押野常松が竹内綱より鉱区を取得したが、そのまま放置する。
明治42年~43年6月(1909~1910)
 押野常松操業を開始する。1年余りで3万4千貫(128トン)を生産して一時中断する。
大正4年~11年(1915~1922)
 押野常松、恵山硫黄鉱山に鉱業権を設定し操業を再開する。大正11年まで操業を続けるが12年硫黄価格低迷のため休業する。その間、大正6年、押野アカに鉱業権を移譲する。
大正14年(1925)
 鉱業権、押野貞次郎に移譲する。
 同年、押野貞次郎、鉱業権を常磐鉱業所に譲渡する。
昭和2年~4年(1927~1929)
 8月、常磐鉱業所、硫黄市況が好転し操業を再開する。
 昭和元年頃より硫黄の価格が上昇する。
 函館人造肥料株式会社等が事業を再開し需要が高まる。
昭和5年~17年(1930~1942)
 常磐鉱業所、鉱業権を押野貞次郎へ譲渡する。
 押野貞次郎、12年間にわたり操業を続ける。
昭和19年、戦時企業整備令により、戦争に直接関係の少ない平和産業に属する鉱山は国に収用される。
昭和24年~29年(1949~1954)
 11月、三重県箕島の実業家石井竹次郎、押野貞次郎より借区して操業する。
 25年(1950)火口原に焼取精煉所を建設、焼取窯2基設置、翌年3基に増設(1基10枚釜 資料参照)
 28年(1953)2月、焼取精煉所を廃止、浮選(ふせん)・蒸気精煉工場(オートクレープ・システム)を建設(恵山温泉からおよそ250メートル登った右手付近)
  浮選
  ・原鉱を水式ボールミールで細かく砕き、鉱物分を水に浮かせ、不純物と分離収集するシステム(工程)
  ・精鉱は原鉱の3倍もの高品位となる。
  蒸気精煉(オートクレープ)
  ・釜に鉱石と水を入れ密閉4気圧とし、120℃以上の過熱蒸気を送り込み硫黄分を液化し取り出す方式
  ・浮選(ふせん)と連動して機能・燃料コストが3分の1で済む。
 29年(1954)10月、硫黄の全国的な生産過剰による価格の暴落、加えて洞爺丸台風による被害・損害のため操業不能。
昭和30年~35年(1955~1960)
昭和30年11月、有限会社石井鉱業所として操業再開する。
 34年頃より、アメリカからフラッシュ工法(資料参照)で生産の廉価な硫黄が輸入されるようになる。
 35年8月、石井鉱業所、野村鉱業(株)と合併して新会社恵山硫黄株式会社を設立する。
昭和35年~42年(1960~1967)
 35年11月、恵山硫黄株式会社操業を開始する。
 42年秋、精油過程で産出の硫黄が大量に出回り閉山する。昭和47年頃には、全国の硫黄鉱山総て閉山する。