函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第4編 産業

第2章 漁業

第3節 昭和時代の漁業

2、戦後の漁業

 北海道は漁業によって拓かれた。開拓使の税収をみれば、ほぼ全額、北海道廳時代に入っても初期の頃は80パーセント以上を漁業が占め、併せて函館港から輸出されるコンブやスルメなど魚介類の製品は外貨獲得の筆頭であった。
 明治から大正、昭和と本道の開拓が進み、農業生産が急増すると共に各種産業が近代化していく中、沿岸漁業だけでは生きていけなくなった漁民は、沖合漁業へと活路を見出し、漁船の動力化・大型化を進めたが、根拠地となる漁港の規模、設備の問題に直面していた。
 政府にとって、漁港の重要性は水産業振興・食料増産ということから認識していたとはいえ、やはり貿易港・商工業港が優先で、漁港は二義的(マイナー)な扱いとなっていた。漁港の重要性が認められ、その地位を確保したのは『漁港法』(昭和25年5月2日法律第137号)が制定されてからのことであり、その後の「港湾法(昭和25年5月31日法律218号)」とともに、それぞれの法律に定められる整備計画に基づいて港湾の修築事業が実施されることになった。そして、政府は昭和26年(1951)を初年度に、第1次漁港整備計画(昭和26年~29年度)第2次漁港整備計画(昭和30年~37年度)、第3次漁港整備計画(昭和38年度以降)と継続して漁港の整備に力を注いだ。併せて、道も第2期北海道総合開発計画のなかでも、特に漁業生産基盤としての漁港整備を重視し、昭和40年度に本道の漁港整備計画の基本方向を再検討するため諸調査を実施した。この結論として、漁場条件・市場条件を同じくする地域経済圏ごとに、①大漁業の根拠地としての整備すべき漁港 ②中小漁業の中心基地として整備すべき漁港 ③沿岸漁業の構造改善対策事業との関連から特に整備を要する漁港 ④③の補助的漁港として整備を要する漁港の4つのグループを選定し、その規模と役割、あるいは機能に応じた整備を重点的に実施するという方針を確定した。

尻岸内村の漁港の現況(昭和42年現在)

 
 第1種漁港 利用範囲が地元の漁業を主とするもの
 第2種漁港 利用範囲が第1種漁港より広く第3種漁港に属していないもの
 第3種漁港 利用範囲が全国的なもの
 第4種漁港 離島・辺境の地にあって漁場の開発、漁船の避難上特に必要なもの
 
大澗漁港
 「ふるさと民話集」に“志利喜寿明神(しりきしみょうじん)の岩”という話が載っている。
 
 むかし、ムイドマリ(武井)の沖合にトゾリという暗礁があり、そこを通る多くの船が遭難した。だが、村の漁師は誰一人そんな目に遭うことはなかった。海霧の日や夜に、そこを通る時、“志利喜寿明神(しりきしみょうじん)さま、志利喜寿明神(しりきしみょうじん)さま”と祈ると岩に灯が点り、無事、村に帰り着くことができた。その岩のある所が現在の大澗漁港なのである。
 
という話であり、この地がむかしからの船入澗であったことが容易に分かる。また、海霧の深い日や夜間などには、かがり火を焚いて船の安全を守ったことなども想像される。
 武井は旧字名で現在の豊浦、志利喜寿明神(しりきしみょうじん)の岩がある一帯は和人が最初に住み着いた地で高台には八幡神社が祭られている。旧字名澗、現在は大澗、その名が示すとおり、浜は岩礁と砂地の格好の船入澗であった。漁港としての利用度は勿論であるが、明治から昭和初期の海上交通が盛んであった時代、特に函館との定期・不定期便もまた頻繁に往来していた(交通通信編・海上交通参照)が、漁港としての整備は行われなかった。
 戦後、イカ釣船の集結港として、また、沖合操業が盛んになるに従い漁港修築の必要性に迫られ着手したのが昭和24年6月のことである。この事業は農林省・北海道費補助によるもので函館土木現業所の直営として、初年度800万円、25年度千500万円を投入し本格的な修築がすすめられた。また、この年、昭和25年(1950)漁港法が公布されるや、翌26年6月29日に第2種漁港に指定された。
 修築工事はこの24・25年の後、26年から29年度まで国による第1次漁港整備計画修築事業を行い、さらに30年から34年度まで第2次漁港整備計画として事業は継続、竣工をみた。その後、37・39年度局部改修事業が行われている。
 
山背泊(やませどまり)漁港
 澗(マ)は湾、船入澗・船着場の意味であり、山背(やませ)のヤマセは風を表すことばで、夏の東寄りの冷湿な風(農民にとって冷害・飢饉を呼ぶ風を意味する)、山背泊はヤマセの風の時にでも船をめることができる、いわゆる避難港を表す言葉でもある。
 このヤマセトマリという地名は、松浦武四郎蝦夷日誌に「ヤマセトマリ、山せ風よろしき処(ヤマセの風が当たらない所)より号(なづけた)る也」と記されており、ここが江戸時代から船入澗であったことは確かであり、また、江戸末、高田屋に高値で買取られる新鱈を獲りに出漁するタラ釣り船にとって、荒天になった時、避難する入り江であったと思われる。
 従って山背泊船入澗の築設工事は大澗港の修築より遥か以前の、戦前の昭和8年(1933)6月に始められ、翌9年の8月に一応の竣工をみている。当時の防波堤ケーソン(註)は斜路で、この工法は、まずケーソンを横臥の形で造り、蓋を取り付けて進水させ、港の設置箇所まで曳航後、注水し起こし正規の姿勢に設置するという方法で、これは道庁築港事務所が採用した工法であった。この工法によると水深の浅い所でも喫水の大きなケーソンを製作することができ、併せて、斜路や通路の費用も節約できたという。だが、この工事は道の拓殖費が当てられ、2割5分が村の分担となった。
 当時、この漁港修築は水産界の革命と歓迎され各町村からの要望が多く、道南の主要漁港が同時に着手した。そんな関係から山背泊については試験という名目で、全体計画の3分の1の規模、1年で完成という中途半端なものとなった。しかも、沿岸漁業はその頃から衰退し沖合漁業に移行し船も大型化し、当初の設計は何度かの変更を余儀なくされた。その後、山背泊船入澗は昭和23年9月の台風で、防波堤底部が波により貫破され堤体上部も破損、さらに港内船揚場と荷揚場の練積張石320メートル、埋土156立方メートルを流失、乙袖護岸も全壊するという大きな被害を受けた。これらの復旧に総事業費、3,857千円、内、国庫補助2,897千円、苦しい村財政からも一般歳入460千円、起債500千円を支出しなければならなかった。
 昭和26年6月29日、山背泊漁港は漁港法により第4種漁港に指定され、国の定めた第1次漁港整備計画に編入され、26年度10月起工、440万円の費用で26・27年度にわたり修築工事が行われた。その後、28年から32年まで、村は大澗漁港修築工事に全力をあげる方針をとり山背泊漁港の工事は中断されたが、31年、漁民の要望を受け再び陳情し,翌32年から開始された第2次漁港整備計画に編入され、32年から37年度までに1億2,279万円の事業費で本格的な修築工事に着手、38年度、第3次漁港整備計画期には山背泊漁港の全事業費、3億5,500万円と決定、38・9年度は9千万円余り、40年は全額国費で4,450万円、41年には4,600万円の巨費が投入され、東西防波堤の延長・荷揚場の拡張、あるいは港内の浚渫などが行われ、名実共に第4種としての充実した漁港に変貌した。
(註)ケーソン 潜函基礎工事で地中に埋めたり海底、川底に沈める鉄やコンクリート製の箱
 
恵山漁港
 恵山漁港は恵山魚田への至近距離にあって、タラ・ブリ・マグロ・イカなど漁業生産の最も多い港として注目されてきた。昭和27年簡易工事が開始され、以来29年度まで3か年間に790万円の費用で東防波堤が築設された。29年7月12日、第1種漁港に指定され、29年より34年までは2,614万円余りの工事費で船揚場・荷揚場が整備され漁港としての機能が充実した。
 昭和38年、第3次漁港整備計画期を迎え恵山漁港の全体計画費は7,970万円、内、国費7,680万円と決定され「改修対象漁港」としての大幅な工事が進められた。
 恵山漁港は、御崎市街中央部に位置し、背後施設の整備も充実しつつあり、津軽海峡東口の重要漁港として、その機能が十二分に発揮されることが期待されている。
 
女那川漁港
 女那川漁港は町の中央部、大澗漁港と山背泊漁港の中間点に位置している。女那川港は西側に尻岸内川河口、東は平磯、南に港口を開くといった天然の良港を形成していたが、その整備は昭和27年道費事業を以て着手された。以来、女那川地区漁民の漁業基地として大きな役割を果たしてきた。
 昭和29年7月12日、第1種漁港に指定され、29・30年度にわたり170万円を投入して簡易工事が行われ、41年度には災害復旧工事として東側埋立護岸及び斜路の修復を行ったが、年々漁船の建造が増加している昨今、船揚場の拡張が強く望まれている。
 
日浦港(昭和42年現在、漁港築設陳情中)
 日浦港は柱状節理の美しい日浦岬に位置し、北西が山地で津軽海峡に面し南東方向に開く天然の良港である。日浦港(漁港ではない)は「港湾法(昭和25年5月31日法律218号)」公布にともない昭和32年、運輸省の所管する同法、第56条港湾に指定された。
 第56条港湾というのは施設のない天然港湾のことで、港湾法では港湾区域のない港湾(第56条)として規定され、都道府県知事がその水域を指定し保護するいうものである。
 すなわち日浦港は第56条の天然の良港として法律で規定されたがため、漁業に必要な陸上施設も漁船の係留施設も全くない(造らない)という港なのであった。従って日浦の漁民は昔ながらの巻揚げで漁船を浜辺に上げ下ろししなければならなかったし、海が少し荒れれば休漁を余儀なくされ、操業日数は著しく制約された。
 このような実態から漁民は大型船を造りたくてもままならず、かつて鰮漁業・鰊の千石場所として謳われ、また、模範部落として賞された日浦の漁民たちも、豊富な魚族資源を目前にしながら、漁港を持つ他の地域に大きな立ち遅れをとった。
 昭和41年尻岸内町議会は日浦港の第56条港湾の指定解除・漁港としての指定を受けるための運動を行うことを決議した。
 
 『昭和42年3月町定例議会、議案第15号 日浦漁港の単独工事施工について』
 日浦漁港整備のため、昭和四十二年度より町営単独工事として、漁港築設
 事業を工費三〇〇万円をもって施工いたしたいので決議を求める。
 昭和四十二年三月十八日提出    尻岸内町長    前田時太郎
 昭和四十二年三月十八日議決    尻岸内町議会議長 吉田 亀蔵
 
 この議決を受け、町・町議会は、道・支庁をはじめとし、中央諸官庁へ請願の運動を強力に進めた。