函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第4編 産業

第2章 漁業

第2節 明治・大正時代の漁業

経営者  曳網の経営はひとり一統を営業するのが常であった。先にも述べたが曳網漁業の経営者にも大小があり胆振以東日高各郡は大きなものが多く、渡島各郡は概して小規模な経営者が多かった。小さなものは10乃至20人余りが共同で一統を営むものもあった。鰮漁業を専業にするものはこの時代、胆振の樽前地方の漁民くらいのもので、殆どは昆布漁あるいは秋鮭漁と兼業して営んでいた。
 
漁夫  明治20年代の鰮漁夫は全道で8千人余りに及んだとされているが、これらは、「雇漁夫、賃金による契約」と「歩方漁夫、歩合の配分を受ける」の2種類があり、その数はほぼ同数であった。雇漁夫は主に十勝広尾郡・日高各郡・胆振樽前漁場で、渡島各郡では少数であった。これら雇漁夫は津軽・南部・秋田・山形(庄内地方)出身者、函館に来て漁場に雇われる者と、漁場近在の小漁民・雑業者があった。
 尚、明治後期について『産業調査報告書第一五巻(大正3年刊行)』には次のように記述している。「亀田郡を除く外は各地とも歩方組織にして、雇入れは漁期以前にその地方の者を口約にて定め、亀田郡に於ける地曳網・角網にあっては主として給料の制度にして、南北津軽を最とし、檜山方面これに次ぎ、その他、南部・秋田・上磯の者を漁期以前、船頭に雇入れ方を依頼し、概ね契約成立すれば前金として、一人に付き一〇円乃至二三円づつ送金し引率渡来せしむ。旅費は往復とも自弁とし、奨励方法として漁獲高百石毎に二三円の賞与を給する」。これによると渡島亀田郡を除く各地とも歩合制のようであるが、これは、恐らく亀田郡を除く渡島各地という意味で、渡島以外の十勝広尾郡・日高各郡・胆振樽前漁場は、この時代も雇漁夫によっていたものと推察される。
 
漁夫の給料  給料は地方によって差があり、また、1期勘定と月勘定があった。
 明治21年の樽前場所1期勘定の例では、船頭50円乃至60円・下船頭及び爺35円乃至45円・賄30円乃至40円・一番雇28円乃至30円・二番雇25、6円・三番雇23、4円であり、この外、大漁の節には漁獲高の5分以内を各人の給料に応じて賞与として与えた。日高は各郡とも月雇で、船頭8円・上雇5円・平雇3円5、60銭で、この外場所により多少の歩合を与えるところもあった。
 
歩方漁夫  歩方漁夫は各地の小漁民や雑業者で、春は西海岸地方の鰊雇漁夫、夏は自村に帰り昆布漁、夏・秋は合間を見て鰮漁で歩方を稼ぎ、冬は鱈漁というサイクルで1年間漁業に従事しており、わが郷土の漁民の多くがこれに属していた。
 鰮漁の歩方による配分は多くの場合生粕であったので、漁夫は各自それを家に持ち帰り乾燥して売却した。配分高はそのときの漁獲高によって異なるが、明治21年頃では、1人1期5石乃至6石、金額にして30円乃至40円程度が普通であり、これは雇漁夫の給料プラス食料費とほぼ同額であった。
 
歩方営業法  歩方営業によるものの中には「純粋の歩方」と「雇漁夫及び歩方漁夫の両者混用」のものがあった。
 歩方配分における網主と歩方漁夫との「負担・配分の割合」は次の通りである。

[表]

 この表によれば、乾燥場・漁具・漁船・製造器具は大概網主の負担、食料・諸雑費は概ね歩方漁夫負担となっている。莚・縄については網主の負担の場合と漁夫の負担の場合があり、網主が負担する場合は、配分率が3対7、漁夫負担の場合は、2.5対7.5、あるいは、2対8程度であった。また、漁夫が「納屋入り」をせず自家で寝食をし、網主が食料を除く一切を負担する場合、配分率は4対6であった。
 歩方漁夫はこの7分内外の配当を各自に配分するのであるが、その方法は「配当額を漁夫の数に、役付きのものの役代を加えた数で除し(割り)その商(答え)を普通の漁夫1人前の配当高」とした。
 
〈資本及び経営例〉
 網漁の資本・経営はその規模により異なる。明治20年代、規模の大きかったのは胆振の樽前地方で1漁場1期で2千円乃至3千円、次いで日高地方が千円内外。渡島は一般的に歩方営業が多く、網もあまり大きくはなかったので、樽前地方より遥かに少なく、亀田郡の古武井椴法華で1期8、900円、知内・砂原・山崎等は700円内外、他の地域はさらに少なかった。
 勿論、資本額は時代とともに増加したのであって、明治末年・大正初期の調査『水産調査報告』によれば、亀田郡の「九間綴地曳網一統分」の「新営費、4千700円余」「経常費 2千800円余」。同じく「角網一統分」の「新営費、2千400円余」「経常費 2千100円余」であった。なお、この地曳網の内訳については次の通りである。
 
            渡島国亀田郡鰮地曳網経営 (明治末年・大正初期の例)

(ア)新営費 計4,757円50銭


(イ)経常支出総計2,835円 ・償却費


・修繕補給費


・雇人料


・消耗費及び諸掛


(ウ)経常収入3,649円40銭


(エ)収支計算

 前記のように経常費の収支決算では、800円余りの利益を得ているが、新営費に4千700円余り投資しなければならず、これを償却するのに(毎年この利益を上げるとして)6年間かかる計算になる。確かに、金額のかさむ地曳網(2,200円)と漁船(1,025円)の保存年数は20年と15年と見ているが、その他については毎年補充・修理していかなければならない。当然、その費用も相当見なければならない。また、経営費中には資本金に対する金利を含んでいない。
 先にも述べたが、鰮漁は確かに当たれば一獲千金であるが海流等、気象状況に大きく左右される。言い換えるならば今年大漁であっても来年の保証はないのである。したがって資本の投資には慎重にならざるを得ない状況にある。
 
〈資本の融通〉
 鰮漁業・網漁は上記のように相当の資本を要し、自己資本で経営するものは甚だ少なく、網主の大半は資本の全部、または一部を借り入れて操業していた。特に、規模の大きな独立の網主は借入れ営業が多く、歩方営業者は借入金が少なかった。
 借り入れの方法には「仕込み・取替・通常貸借」の3種があったが、最も広く行われていたのは「仕込み」で、取替、通常貸は少数であった。
 仕込制度は普通、海産商(資材商を兼営するものが殆どであった)が漁業生産者に対して漁業用物資や現金を一定の金利で貸与し、漁業生産者から収穫物を市場価格以下の値段で買占め、その価格から先に貸与した物資・貸金の元利を差引く方法であった。つまり、漁業生産者は仕込主に、貸与と買占めの二重の搾取を受けるわけで、凶漁ともなれば小生産者は赤字、倒産、経営権は仕込主に収奪される事にもなり兼ねなく、沿岸漁業者を零細経営に停滞せる要因であり、中小企業の資本制漁業への発展を一定限度に止める要因ともなった。この仕込主の殆どは函館の海産商であり、この制度について「…需要物品の如きはひとつとして、基手(仕込主)を経ざるはなし、故に収獲は挙げて基手(仕込主)に帰し、鰮漁業の実権、殆ど漁民より去るの恐れあり」との記録もある。
 明治中頃の資本融通「仕込み・取替・通常貸借」について『北海道水産予察調査報告書明治25年刊』から、渡島の概況を抜粋して見る。
 渡島国中最も多く「仕込み」の行われているのは、上磯郡の知内と亀田郡の汐首以東、椴法華に至る迄と、茅部尾札部以西、鹿部に至る間である。仕込みについては、一定の資本を持ちながら不足分を補うも普通のものと、事業の全額を仕込みで賄うものの、概ね2種類がある。なお、この実態については地域により様々な様相を呈している。
 知内村漁業者中現在仕込みを受けていないもの、僅か1名のみである。これは明治10年が大漁であったため、11年以降新たに鰮漁を行うものが急増したことによるものである。これら漁業者の初年度の借入金は僅かであったが、以降連年不漁が続き借入金は漸次増加し(全額仕込み)容易に償却することができず、この状態で数年を経過すれば、漁業の実質的経営権は金主の手に移る状況にある。なお、仕込みの金利は月2分5厘、収獲販売の手数料は3分であり、金主は主に函館の海産商である。
 亀田、茅部地方の仕込みは概ね普通の仕込みで、尾札部の一部に「小周り船の仕込み」と、椴法華及び臼尻では「手回り」と称する一種の仕込法(周年の仕込み)があるくらいである。なお、上磯郡・知内村が不漁続きであった明治11年以降、特に14年・15年・16年の記録によれば、下海岸は空前絶後といってもいいほどの大豊漁であった。
 「取替法」は全道的に少数であったが、渡島では上磯郡木古内・亀田郡小安椴法華などで相当行われていた。この方法も地域によって異なるが、木古内地方では、その収獲を仲買人に売り渡す契約を結び、漁期中に要する物品を借入れ、収獲を引渡す時にその代価中より、前に借りた物品の時価を引去る方法で(借りた物品が最小限度のため)、収支決済の際に不足を生じる事は稀であった。
 「通常貸借」も全道的には少数であったが、上磯郡有川・函館区大森浜・亀田郡湯の川より石崎に至る間では多く行われていた。これは、総て信用貸しで抵当なく、金利は概ね月2分であった。
 なお、多くの問題を抱えた仕込みによる融通は、その後も広く行われた。
 大正3年刊の『産業調査報告書(第15巻)』にも、亀田郡の鰮漁業者で自己資金のものは極めて少なく、多くは仕込みに依存していた旨が記されているが、その他の地方でも事情はほぼ同様であったものと推察される。
 なお、同報告に記すところによれば、仕込主は主に函館の海産商で「網一統に対し普通現金千円・500円の物品」を投資したといわれている。網主は翌年の2、3月、鰮粕乾燥の上仕込主に送付し、その際の精算で借越(赤字)となったならば、金利2分5厘を付し、翌年の漁期終了の際に計算するのが普通であったという。