函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第4編 産業

第1章 農業

第2節 農業の歩み

3、昭和前期(戦前)の農業

 昭和4年(1929)の尻岸内村有文書に、「村総面積8千600余町歩のうち、田、5町1反、畑、170町歩なり。この水田は字女那川の三箇友次郎、字古武井の中森伊三郎が試作していたもので、反当たり収穫、約1石(2.5俵、150キログラム)で空知・上川地方の水田には及ばないが頗る有望である」と記されている。
 当時の村長、丹野助七(道庁技手、渡島支庁第2課長、上磯郡茂別村長を経て、昭和5年12月~6年6月迄半年間在任)は、在任期間が短かったが前歴は産業畑一筋であり、しかも、東北地方の米どころ宮城県名取郡明上町出身ということからか、特に、新田開発には意欲をもち積極的に村政に臨んだ。
 ここに、丹野村長の村議会での演説内容が残っているので、その要旨を記す。
 
 本村は広莫なる耕作可能地を荒蕪地の儘放置しある。殊に女那川流域には約二百町歩の水田適地を有す。将来品種の選択と客土事業及び溜池の設置を極力勧奨し、その指導実施の宜しきを得れば将来優良なる農村形成し得るべきを、地主を会同し対策に付協議の上適当の計画をせん。
 
 その頃の米の消費量は、大人1年間およそ1石(150キログラム)といわれており、全く米の採れない当町にとって、当時の人口6千5、600人、毎年6千石金額にして20万円以上の米を移入しなければならなかった。これは、主産業・漁業の総収入の30%以上を占める金額であってみれば、「米の自給率を少しでもあげたい」それが、村の産業振興の悲願でもあった。ところで、わが郷土の米造りについての試みは、これより少し遡る。
 
水田耕作賃借契約書の存在 明治34年(1901)11月17日付で、女那川古武井地区の土地を借り受け水田耕作をするという契約書が残されている。
 
   契 約 書
今般尻岸内村字女那川古武井ノ弐個所に於テ貴殿ノ所有ニ罹ル畑ヲシテ水田トシテ耕作スル契約スル事左ノ如シ
一 明治丗五年壱月ヨリ仝丗七年拾弐月マデ参ケ年間ニテ全部成功ス
一 其年々成功シタル耕地ヨリ壹段ニ付玄米貮斗宛地主ヘ上納スル事
 但シ 初年壱ケ年ハ無年借トシテ二年目ヨリ徴収スベキ約
一 耕作賃金ハ壹段ニ付金四円トス
 但シ 成功シタル上地主ノ踏査ヲエテ賃金ヲ受ケ渡シナス事
一 右條項ノ外細項ニ至ッテハ別ニ定ムル事ヲ契約ス
右の通契約致候処無相違之候後日為念之
正本弐通を製し壱通宛持するもの也
    亀田郡尻岸内村字武井拾九番地
         地主 赤井幸次郎 印
 明治丗四年十一月拾七日
    檜山郡魚咸川村字問屋弐拾弐番地当時
    亀田郡尻岸内村字女那川弐拾壱番地
    福井四郎平方寄留
         耕作者  山田管三郎 印
         亀田郡尻岸内村字武井弐拾六番地
         依頼代筆 水島 吉郎兵衛 印
 
 但し、この貸借契約が実行に移されたかどうかについては、資料もなく伝聞もない。恐らくは計画だけで耕作の事実はなかったのではないかと思われる。
 
議会での論議 また、大正9年(1920)の村議会では、村当局から議題「本村新田を設くること」が提案され水田耕作について論議されたことが、議事録に「将来、女那川古武井両部落に於いて稲作普及相成る様希望する」と記録されている。
 水田耕作が実際に試みられるようになったのは、この、大正9年(1920)以降だったように推察されるが、それは、いわゆる農業基盤の整備とか構造改革といった公的な取組みではなく、あくまでも農業経営・水田耕作者の個人的な努力に対する村の援助といったものに過ぎなかった。
 さて、話を昭和4年(1929)以降にもどす。
 造田事業について、熱弁を振るった丹野村長も在任僅か半年間では実行に移すべくもなく、その後の歴代村長の懸案事項として申し継がれてきたが、この時代、運悪く天候の不順が連続して現れ、農業の飛躍を担った造田事業計画も相次いで襲った冷害・凶作の前に頓挫を余儀なくされた。当時の天候不順・凶作の実態についての記録が残っているので、要約し列記する。