函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第4編 産業

第1章 農業

第1節 農業

 わたしたちの国は農業を基盤として成立してきた。
 その、農業の中核をなしてきたのが水稲耕作であり、これは現在(いま)でも変わりはない。
 稲作が始まったのは、BC200年頃、北九州地方が発祥の地であり、渡来人がもたらしたという。この、稲作は北九州地方から、近畿、中国、四国へと広がっていった。稲作をする人々の群団、弥生人は、長い年月をかけてつくりあげてきた先住民である縄文人の生活・文化を凌ぎ、飲込み、猛烈な早さで広がり、農耕社会を各地につくっていった。この小さな社会である「ムラ」「クニ」が、古墳文化を生む巨大な国家に変貌するのに、そう時間はかからなかった。
 和銅3年(710年)藤原京から遷都した平城京の規模をみれば、その権力の巨大さが窺える。東西約4.3キロメートル、南北約4.7キロメートル、北部中央に大内裏をおき、市街を左右に分ける、道幅約84メートルの朱雀(すざく)大路、唐の長安に倣(なら)ったというこの都には、およそ20万人の人口が集中し、役所・役宅が立ち並び、公営の市が開かれ日用品の売買・交換がされるなど、繁栄を極めたという。平城京の繁栄、即ち国家の発展を支えたのは、紛れもなく稲作・農業であった。この時代、権力者は「班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法・口分田(くぶんでん)の班給」「百万町歩開墾計画」といった農業開発の施策を進める一方、自らの財の蓄積のために「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」を成立させ、「荘園」を造り、広大な土地を私有化していった。
 万葉集の歌人、山上憶良の貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)にもあるように、稲作が広まって僅か数百年、国家の財政を支えていた筈の農民たちの、貧しく苦しい生活はもうこの時代に始まっていた。
 時代は、武士の世へと移り変わる。が、権力者を支えたのは、実直な働き手である、夥(おびただ)しい数の農民であることに変わりはなかった。
 荘園に胚胎(はいたい)したわが国の封建制は、鎌倉幕府の創立と共に発展し、江戸時代には内容を変じ(いわゆる幕藩体制)、完備していった。この幕藩体制の緊密化は藩の財政を逼迫し、藩主たちは財源を生むための様々な方策を試みた。そのため今に残る各地の特産物はこの時代に生まれたものが多い。多彩な食材・食料品。織物、染物、焼物、塗物、鋳物といった工芸品等がそれである。しかし、藩の財政の基盤は何と言っても米であり、藩の格が米の生産高(石高)で示されるような経済の絶対価値であった。そして、それを生産する農民には身分制度上(士・農・工・商)、名ばかりではあるが武士に次ぐ地位を与えられた。
 この米の増産には、為政者はもとより生産者たちも英知と労力を惜しまなかった。今も利用されている中国地方などの溜池や水路、熊本の火山灰地を潤した水道橋、全国いたるところの傾斜地に残る棚田・千枚田、児島湾や有明海等の干拓地造成は江戸時代に遡る。
加えて、栽培法の工夫や肥料の生産、農具の改良等々、生産は確かに上がったが、年貢はそれにも増して上がっていった。そして、耕地を守り米を生産する農民は、その地を縛られることを余儀なくされた。
 こうして、もともと熱帯の作物であった水稲は、全国の可能な限りの土地に広がり、さらには、比較的寒冷な東北地方へも北上していった。水田への執着とこれまでの英知は寒さをも克服したかに見えたが、自然はそう甘くはなかった。東北地方は周期的に寒冷な気候がやって来る。稲の栽培法が進んだとはいえ、冷害に見舞われることがしばしばであった。−これは、品種改良や栽培技術が高度に進んだ現在でも程度の差こそあれ変わりはない−特に、冷たい千島海流の影響を受ける太平洋岸の南部地方、ここは、平地に乏しく谷間や丘陵地を開墾した条件の悪い耕地が大半をしめ、受ける被害も甚大であった。天明、天保年間の冷害・飢饉を伝えるこの地方の生々しい記録が今に残る。交通の不便な流通もままならぬ最北の地である。度重なる冷害に大量の餓死者を出した惨事は想像に難くない。
 米はおろか作物を産み出すことのできなくなった土地から、農民たちは、御法度(ごはっと)を破り逃げ出すほかはなかった。そして、農地を棄てた彼等は海に糧を求めた。もともと半農半漁でしか暮らすことが出来ない人々も多かった。南部地方の三陸海岸は、暖流と寒流がぶつかり合う好漁場として知られており、その、豊かな海産物には商人たちも目を付けていた。とりわけ「長崎俵物」と呼ばれた鮑(あわび)・海鼠(なまこ)・鱶鰭(ふかひれ)の乾物と「昆布」は高い値段で取り引きされており、その名の通り長崎を経由して、遠く中国へ輸出され王侯貴族の食膳を賑わしていたという。そして、蝦夷地はこれらの産物が南部を凌ぐ宝庫であった。
 農地を棄て海に活路を求めた人たちは、やがて、蝦夷地へと渡って来る、初めは漁期だけの出稼ぎであったが、海の幸豊かな蝦夷地を第2の故郷と定め、生まれ育った土地を農地を棄てて、ぞくぞくと移住して来たのである。
 わたしたちの故郷を開いたのは、このような人々であった。だが、この時代、分業の進んでいた江戸や難波のよう大都会の町人ならいざしらず、食料の大半は自給自足で賄っていた時代である。故郷の先人たちは、流通の乏しいこの蝦夷地で、豊富な海の幸はともかく、陸の糧、毎日の食べ物をどのようにして確保していったのであろうか。
 ここでは、漁業のかたわら、僅かな平地を切り開き少しでも食膳を賑わそうとした時代、稲作を試みた時期、農地開発に可能性を求めた時期等について記述していくこととする。