函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第3編 行政

第5章 現在の郷土の行政

第2節 現在の郷土の行政

2、民選首長と郷土の行政

(4)山田・工藤町長時代

第5代町長 山田 忠昭(任平成7年4月24日~退14年4月25日)
 5代目町長に就任した山田忠昭は昭和14年1月、字古武井の生まれ。
 東光中学校から函館東高等学校へ進学、昭和32年3月卒業、同年5月、尻岸内村事務吏員として採用される。産業課林産係を振出に、昭和34年民生課厚生・労働係、36年民生課厚生・職業・国民年金係、39年教育委員会へ出向、学校教育係長、45年には管理職として、総務部総務課長補佐兼防災・管財係長、46年議会出向、議会事務局長・選挙管理委員会書記長・監査委員会事務局長、50年税務課長、53年4月1日、三好町政の重点施策である“育てる漁業”充実のため、農林水産課から分離独立させた水産課の初代課長を務める。56年7月から2年間、国保病院の経営の刷新を期待され事務長を務め軌道に乗せる。58年7月再び水産課長(地域活性化対策室主幹を兼務)を命ぜられる。
 この期間、57年より3か年計画で町内4漁協管轄の浅海漁場調査を実施したが、これは道立函館水産試験場・渡島南部水産技術普及指導所・町内4漁協・恵山町水産課が合同で行った組織的・専門的な調査で、この詳細な報告と所見は調査に参加した経験と共に、町のめざす「管理型漁業」の振興に大いに役立っていることはいうまでもない。
 この調査に積極的に参加した水産課の職員に、6代目町長に就任する工藤篤、後に水産課参事として漁政の牽引車となる大野孝悦らがいる。
 62年7月1日、山田は荒木清吉の後任として収入役に選任されるが1年余り在任し、63年8月1日、相沢二三男の後任として教育長に選任される。山田の教育長としての詳細は教育編・第4章教育委員会の項に屡々記しているので省略する。山田は教育長2期目、2年を残し平成6年7月10日辞任する。
 平成7年4月23日統一地方選挙・町長選挙に立候補し当選する。(山田忠昭 2、133票 湊貞治 1、736票)
 平成7年4月24日、山田忠昭町長に就任。山田は就任挨拶で次のように述べている。
 
 広報「えさん」1995年5月号より
 二一世紀は既に目の前にきており時代の変化に対応し、足腰のしっかりした町づくりが急務であると考え、私に課せられた責務として受け止めております。
 このためには、豊富な資源と優秀な人材を活用した大胆な発想の転換が、町政を推進する上で必要であり、一〇年先二〇年先をも想定した恵山町の将来構想を持ち、町民の皆様とともに町づくりを進めてまいりたいと存じます。
 基幹産業の漁業を中心とした産業基盤の確立、時代を担う青少年の育成、豊かな高齢化社会等、長期的な展望に立って、“ゆとりと潤いに満ちた町づくり”“活力あるふるさとづくり”に全力を尽くしてまいりたいと存じます。
 今後とも一層のご支援を賜りますようお願い申し上げ、就任のご挨拶と致します。
 
 山田はさらに、広報「えさん」7月号に、活力あるふるさとづくり・魅力ある町づくりと題して、平成7年度の町政執行方針、重点から具体的な施策に至まで詳細に述べている。その中で、挨拶に上げた内容を再び繰り返し、さらにこれらを次のように強調している。
 
 何よりも、年々人口の減少が著しいため、特に生産労働力の確保を目的とした青少年層の人口増、定着を図ることが急務と考えております。これらの有効な方策を内的にも外的にも要因を求めて施策についてさらに調査・研究をして参る所存であります。
 今後の町づくりに取り組む基本理念として、五つの目標を定めました。
 ①足腰の強い水産業が推進できる町に
 ②ゆとりと潤いに満ちた住みよい町に
 ③文化的な過疎から脱却が図れる町に
 ④豊かな資源の活用と働く場の確保ができる町に
 ⑤福祉行政の充実した町に
 
 山田は、これらの“町づくりへの思い”を重点目標として掲げ、具体的な施策を積極的に練りあげる、いわば攻めの町政−人口減少が加速し予算が厳しい時代であるからこそ、町民のためできる限りの豊かさを求める町政−をとったと推察する。
 それが、観光の拠点づくり(道の駅、なとわえさん)、恵山町立国保病院の新築、風力発電の誘致などの具体的な事業であった。
 平成11年4月25日地方統一選挙・町長選で、山田は無投票再選される。
 平成14年4月25日、山田は町立国保病院の運営等に関しての町民の疑義の声に、信を問うため任期を1年残し町長を辞職する。
 
第6代町長 工藤篤(任平成14年6月2日~退16年11月30日)
 平成14年6月2日、山田町長の辞任による恵山町町長選挙に当選したのは、恵山町教育委員会参事を退職し立候補した工藤篤である。(工藤篤 1,831票 山田忠昭 1,601票)
 第6代町長工藤篤は昭和25年4月20日字古武井の生まれ、戦後生れの初の恵山町長である。古武井小学校、東光中学校卒業、函館北高等学校へ進学。
 昭和44年3月高校卒業、同年4月1日、尻岸内町に採用され総務部住民課衛生係として自治体職員の道を歩む。47年4月税務課徴収係、49年には書記に、50年7月産業課農林水産課水産係、53年水産課水産係兼漁政係、54年10月には4年間の水産技術の習得から技術吏員・技師に任じられ、翌55年には水産課振興係長、57年には浅海漁場調査プロジエクト(山田町長の項参照)の一員として活躍する。
 58年水産振興係長と水産課在職の長い工藤は、普通高校出身の一般職でありながら、町内外から水産行政・水産技師としての高い評価を受ける。
 60年10月、自治労道本部専従役員に就任、63年10月まで休職(総務課付)となる。
 63年11月1日、3年間の専従を終え企画財政課地域活性化対策係長として復職、個人的なネットワークを駆使し、理研計器株式会社の誘致に成功する。
 平成2年7月30日、教育委員会出向、山田教育長のもと学校教育課学校教育係長を務める。この係長当時、学校グラウンドの芝刈を、自ら手押式芝刈機で数日かけて刈りとったというエピソードが残っている。体を動かすことを厭わない工藤の一面を表している。
 平成4年4月、総務課、職員厚生係長兼交通安全係長及び町史編纂係長の3係担当という激務の中で、尻岸内町史の年表改訂を行う。7年6月、国保病院医事係長、9年教育委員会出向、主幹、恵山町立高等学校事務長、10年4月税務課主幹・徴税吏員・現金取扱員、13年には3度目の教育委員会出向、生涯学習課参事として主に社会教育を担当する。平成14年4月30日退職。平成14年6月2日第6代恵山町長に就任する。
 工藤は町長就任の初の町議会で(町政執行方針について)次のように述べている。
 
 広報「えさん」2002年8月号より
 「……さて、今定例会に当たって、町政執行について私の所信を申し述べ、町議会と町民の皆様のご理解とご協力をいただきたいと存じますが、すでに、平成十四年度の事務・事業等については、三月の第一回定例会において方向性が見出だされている所でありますので、行政の継続性を尊重し、よほどの不都合・支障がない限り、粛々と町政を進めてまいりたいと考えております。従いまして、ここでは選挙戦で掲げました八大公約を基に、町政を進めるに当たっての基本的な考えを申し上げ、ご理解とご協力いただきたいと存じます」と前置きし、工藤町政執行の基本となる「八大公約」について、述べている。
 −以下、その項目と要点について記す−
①移動町長室の実行 できるだけ気軽に出かけ気楽に話し合える場を多く持つ。
②情報公開制度の導入 当面は過去三か年分を先行させ公開する。
③町民参加型の町政 町民各層の代表の方々に町政への参画を願う。
④新病院建設の推進と医療・福祉の充実 町民負担の軽減と信頼される病院経営。
⑤教育の振興 学校統廃合に地域・父母のコンセンサスと、推進体制の強化を図る。
⑥青年・女性・高齢者の生きがい対策 青年・女性・高齢者のパワーを生かす。
⑦漁業振興と観光振興 漁協合併のスケールメリット・民間資本の導入を図る。
⑧顧問弁護士制度の導入 複雑な現代社会に対応する法律知識の必要性、瑕疵のない行政を進めるために専門家・弁護士の力をかりる。
 
 工藤はこの8大公約を掲げ、山田町政を継続しつつも懸案事項の解決に専念、一定の成果を得るが、国・道の市町村合併の方針を熟慮し、恵山町の現状と将来性を町民に問い・糾し、5市町村合併に踏み切る。
 平成16年11月30日恵山町の歴史に幕を下ろし退職する。
 
助役 福澤忠秋(任平成7年5月29日~退平成14年6月4日)
 山田町長のもと助役を務めた福澤忠秋は、昭和17年9月字古武井の生まれ。
 昭和33年3月、東光中学校を卒業、4月5日、尻岸内村書記補として採用される。
 昭和36年税務課徴収係、39年尻岸内村立国保病院事務係、41年議会事務局出向、42年庶務課財政係長に、43~48年まで総務部、管財・防災・統計・農政・管財防災の各係長を歴任。49年3月渡島東部消防事務組合派遣、同年12月17日退職する。
 昭和50年7月尻岸内町事務吏員に再採用、出納室出納係長(主事補)として務める。51年恵山地区衛生処理組合出向、事務吏員、同組合、総務係長兼出納員、52年、同組合、事務長心得・事務局長兼衛生センター長(主事)、56年7月総務課長・尻岸内町土地開発公社理事を兼務、60年7月建設課長、63年企画財政課長、兼地域活性化対策係長事務取扱、平成2年4月建設水道課長兼水道経理係長事務取扱と、課長職を歴任する。
 福澤の場合、履歴をみると課長職と事務経理を兼務している。それだけ事務能力に秀でていたということであろう。平成6年1月から国保病院運営改善推進委員を兼務する。
 平成7年5月29日、助役に選任され、財政の厳しいなか山田町長の補佐役として、新規事業実現に奔走する。11年5月29日助役再任、14年4月26日、山田町長辞職後、町長職務代理を務め同年6月4日退職する。
 
助役 石田徹也(任平成14年6月26日~退平成16年11月30日)
 工藤町長の助役を務めたのは、当時、教育委員会へ出向、給食センター長を勤めていた石田徹也である。石田は昭和21年4月、字豊浦の生まれ、地元、尻岸内中学校を卒業、函館有斗高等学校(現函大附属有斗高校)商業科へ進学、昭和40年卒業と同時、4月1日尻岸内町事務吏員・書記補として採用され住民課社会係として自治体職員の道を歩む。翌、41年4月総務部庶務課庶務係及び職員厚生係、同年12月1日病院企業現金取扱員を命ぜられ以後6年間、47年4月までこの職を務める。役場の人事で専門職ならいざ知らず、一般職の、それも新人が1つの係にこれだけ長くとどまる例は余りない。石田が、これらの事務処理に関してそれだけ信頼されていたということであろう。
 47年4月から50年まで3年間国保病院庶務係長を務める。石田の病院勤務はその後も53年4月再び国保病院事務長補佐・医事係長、平成2年2月には3度目の国保病院事務次長、6年1月には国保病院運営改善推進委員会、7年6月には4度目の病院勤務で国保病院事務長となり、病院のエキスパートとして自他共に許す存在となる。石田は一方、54年税務課長補佐兼賦課係長、平成11年税務課長、7年企業出納員、9年徴税吏員・現金取扱員など税務・経理等の経歴も長く、その職務に精通していたことも窺える。
 課長職としては56年7月の総務課長補佐・企画課長補佐、59年企画財政課長・保健衛生課長の要職を歴任。外局へは議会事務局へ50年・平成6年の2度の出向、平成13年教育委員会へは初めての出向・給食センター長在職中に助役の要請を受ける。
 平成14年6月26日助役に選任される。国保病院の移転改築など財政的な面での懸案事項が山積する中、期待されての就任であった。なお、在任中、収入役の職務も兼ねる。 平成16年11月30日工藤町長とともに退職する。
 
収入役 山崎孝蔵(任平成7年5月29日~退平成14年6月4日)
 山田町長のもと収入役を務めたのは、当時、保健衛生課長・病院運営改善推進委員会委員を務めていた山崎孝蔵である。
 山崎は13年4月字女那川の生まれ、昭和29年尻岸内中学校卒業。
 尻岸内村事務吏員となったのは昭和36年3月1日、尻岸内村国保第2直営診療所が振出しである。同年7月総務課運転手、40年3月総務部庶務課運転手、翌41年4月から技手・車両係長、経済部水道課料金係長を務める。
 44年5月会計職員・現金取扱員、45年経済部水道管理係長、53年建設課長補佐兼土木係長事務取扱、54年9月企画課長補佐・交通防災係長・公害苦情相談員、企画課長補佐・企画係長・交通防災係長、56年10月水道課水道技術管理者、57年建設課長補佐、58~9年総務課長補佐・庶務係長・交通安全管財係長を兼務、61年税務課長補佐兼徴収係長を歴任するが、山崎はこの間、44年5月から62年6月まで18年間にわたり会計職員・現金取扱員を兼ねる。
 62年7月水産課長補佐・水産振興係長、平成4年水産課長、6年4月渡島東部消防一部事務組合派遣、同年8月保健衛生課長・病院運営改善推進委員会委員を務める。
 平成7年5月29日収入役に選任される。技術者として管理職としての経歴は勿論であるが、18年間の会計職員・現金取扱員という山崎の実績に期待が寄せられたと推察する。
 平成14年6月4日、福澤助役と共に退職する。
 以降、収入役は選任せず、石田助役が収入役の職務を兼ねる。