函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第3編 行政

第2章 明治・大正時代の行政

第5節 大正期の行政

5、大正期の役場3役と村政の状況

第4代村長 島中兼松(大正1年8月7日~2年3月20日)
 島中兼松は松前郡吉岡村の人で吉岡村書記を経て収入役・松前水産税区管理者を務める。漁村出身、そして、その前歴から嘱望されての赴任であったが、部下の不祥事により僅か半年余りで尻岸内村長職を免ぜられる。
 発端は、大正2年2月1日付の北海タイムスの「川崎船の征伐、出漁者不平の声高し」の見出しで、尻岸内村役場税務吏員相原豊次郎の非行が報道されたことにあった。相原は教員・北炭夕張の事務職員・警察官・司法事務職など多才な経歴と事務能力を買われて、大正1年10月尻岸内役場に奉職、直ちに税務事務の重責を担った吏員であった。函館支庁は島中村長にその事実の有無について報告を求めると同時に、相原の事情聴取をはかったが、相原は弁明書の提出もせず審査中の同年3月15日、真相不明のまま自ら退職する。島中はその責任−役場吏員監督不行届の故を以て3月20日、その職を免ぜられたのである。村長たる者の責任を問う、当時の監督官庁の厳しい態度が窺がえる出来事である。
 
第5代村長 砂山武俊(大正2年3月20日~5年9月14日)
 島中村長時代の不祥事の後を継いだ砂山武俊は、石川県羽咋郡高浜町の生まれ。高浜町役場に奉職を振出しに同郡中甘田村役場・羽咋郡役所・鳳至郡役所を歴任、明治40年来道し小樽区役所さらに小樽支庁に奉職という自治体職員としてはれっきとした経歴の持主。同年3月小樽支庁の廃庁で一時浪人するが、同年5月鹿部村役場へ請われて奉職、後、砂原村村長となり、大正2年3月20日尻岸内村長を命ぜられ本村へ赴任する。
 ベテラン砂山が第5代村長として村政に当たることになったが、未だ役場内に島中時代の問題が燻っていた。1つは相原の担当していた国税問題である。後任の税務主任と山田収入役との事務上の齟齬から、支庁への(国税)営業税完納報告を誤り山田収入役は辞任へと追い込まれる。8月には後任の佐々木伝右エ門が就任するが同収入役も間もなく病気で辞職するという、村の出納責任者が不在同然の状態に陥ったことと、2つめは島中時代以来の役場職員の派閥抗争が続いていたことである。砂山村長は人事異動による人心の一新を狙い渦中にある中堅幹部の異動を支庁に内申、これを断行したのである。
 こうした状況の中で砂山は、大正2年7月には古武井小学校の2教室の増築、同4年には突風に飛ばされた同校の屋根復旧工事、翌5年5月には同校グラウンド拡張のための校舎敷地の買収など、硫黄鉱山操業により急激な人口増となった古武井地区、念願の学校環境整備に力を注いだ。この3年間の業績から、さらなる行政手腕が期待されたが、大正5年9月14日、戸井村長に発令され転任となる。そして、それから僅か半年後、砂山は業務上の横領・文書偽造の嫌疑がふりかかる。この詳細については次の項に記す。
 
第6代村長 福士賢次郎(大正5年9月14日~8年8月6日)
 島中、砂山村長の後を受け村長に就任した福士賢次郎は茅部砂原村の出身で、明治19年から同27年11月まで道庁巡査を務め一時浪人をするが、後、明治30年6月には道庁森林監守として松前郡役所(この松前郡役所は30年11月4日に松前支庁に昇格)に勤務、同33年6月に福山町(松前町)役場に転じ、同40年4月戸井村書記に、翌41年椴法華村戸長に昇任、同44年3月銭亀沢村長を命ぜられる。そして大正5年9月14日尻岸内村長に発令された人である。
 村長2代にわたる不祥事後赴任した福士の業績には見るべきものがある。
 福士は赴任するや道庁森林監守の経験を生かし、村基本財産を増殖するため、毎年杉苗5千本以上植栽することを実行し、さらに、字根田内、字ナガキノ沢(現字高岱)の未開地の無償付与申請をするなど、本村の林業の基礎づくりに務める。
 教育についての業績も顕著である。まず教育財産の造成を計るため管理規則を定め、毎年村費に教育予算を計上し積立てをし、大正7年3月古武井小学校の奉置所を建設他、古武井・根田内小学校教員住宅の建設、同8年5月日浦小学校の教室増築を実施する。また、学校保健についても関心をよせ、同7年度初めて学校医を委嘱する。
 漁業についての見識も深く、主要水産物奨励のため大正6年、古武井小学校を会場に水産品評会を催す。さらに、沿岸から沖合漁業へと目をむけ、改良川崎船建造の補助を出願させるなど、勧業に力を注ぐ。
 生活環境づくりにも目をむけ、道路・橋梁などの大切さの意識を喚起、村民による道路の清掃・補修、橋梁の架設など要所要所に指導標をたて、いわゆるボランティア活動を促した。各部落の自主性に任せていた衛生組合も、衛生行政の万全を期するため村内1組合に統合、指導の徹底を計る。さらに、大正1年設定された善行者表彰規定を生かし「美事篤行者」を表彰しその功績を賞揚、愛郷精神の昂揚に務める。
 以上のように福士村長の業績には見るべきものがあったが、在任期間に様々な事件・事態が生じた。これらも当時の村の状況を垣間見る1つの断面としてふれることとする。
・大正5年7月19日、巡洋鑑「笠置」女那川海岸で暗礁に乗り上げ座礁・廃船となる。軍事秘密に準ずる事件でもあり、福士村長赴任早々その対応に追われる。なお、笠置の引き揚げについてはその後も様々な問題を引き起こす。
・同6年2月21・22日の村会で、大正4年度普通基本財産特別会計決算、歳入の預金利息70円の不足が判明する。この事について、福士村長は前村長砂山(現戸井村長)に照会、説明を求めたところ、砂山は「一切は自分の責任であり弁償する」と回答してきたが、函館地方裁判所予審掛は「業務上横領及び文書偽造行使の被疑者」として審議することを決定する。
・同7年9月11日午後6時30分頃、字根田内で火災が発生、消防組員・地元青年団の活動で大事に至らなく済んだが、同月14日付の函館毎日新聞の記事がもとで悶着がおきる。記事には青年団の消火活動が華々しく書かれ、消防組については全く触れていなかったのである。消防組員から「これでは消防組は恰も動員しなかったと受け止められる」と村長に(新聞社に対して)抗議するよう申入れがあり、福士は青年団との関係も考慮し慰撫に心を砕いたと記録に残る。
・同年12月2日、会合の席上で、日浦小学校長西郷文平に対して村会議員松本専太郎が暴言を吐いたことから両者口論となり、激怒した西郷は支庁長に事の次第を報告し毅然たる態度を示すよう要望する。一方、松本も自らの主張に毫(わず)かの誤りもないとして一歩も譲らず、支庁長の意を受け福士は仲に入って和解させるのに苦労した記録なども残る。
 このような事態もある意味では村政の担う1つの役割であり、それだけ住民の期待に応えていたということにもなるのであろう。ともあれ、福士は惜しまれながら、大正8年8月6日松前郡大島村長として発令され、上席書記細田甚之助に事務を引継ぎ去って行く。
 
第7代村長 藤原覚因(大正8年8月6日~10年2月19日)
 第7代村長の藤原覚因は現在の官僚に相当する行政職経験者である。
 藤原は新潟県中経郡柿崎村の生まれ、明治17年2月、新潟師範学校を卒業後、新潟県公立小学校長を務め、同29年5月には高等師範学校訓導(現在の大学教官)に、32年1月には群馬県富岡小学校長、同33年9月には熊本県視学(現県教育長)を務め、大正1年11月には同県菊池郡の郡長に任ぜられたが健康を害し同3年6月に退官、療養に専念する。同8年、健康を取り戻し8月6日、尻岸内村長を命ぜられ福士の後を受け村政を担当することになる。
 藤原は着任早々『本村の発展上、教化施設の整善を始めとして、漁業、農業、林業等、各産業につき幾多の改善進歩を斉らすは(整えるにはの意)、これ職員の資質向上と十分なる指導態勢にあり』として「役場職員の待遇改善と職員数の増員を禀申」。併せて、村会議決の「国道開削方についての意見書」を、大正8年11月19日付で、支庁長を経由、道庁長官に提出する。ところが支庁長から、その文面が穏当を欠くとの理由で、同年12月1日付、差し戻される。
 これに対して藤原は「公益に関し本村会の所信と本村の実況とを道庁長官に具申するもの」であって、村会に対して再議を指示すべき正当な理由もなく、かかることを以って、「要請を指示するが如きは村長として為すべからざる義に存候」と突っぱね、支庁長にそのまま進達すべきを強く申し入れた。このことからも藤原が地方行政・自治になみなみならぬ信念を持った人物であることが窺える。
 なお、大正9年6月3日安東支庁長巡視に際し、藤原村長が説明した『村政一般』についての内容を以下に記す。
 
<経済>
 住民は概して漁業に従事し農業者として専ら農耕に務むる者は至りて、而して漁業は大正七年以来薄漁なるに米価等甚だしく騰貴し生計転々困難を告げつつあり。其を以て大正六年八百五十三戸を有せしか、同七年八百十四戸、同八年七百七十七戸に逓減するに至れり。尤も昨年秋は日浦部落に於いて鰮の好漁あり、本年春尻岸内に於いて鰈等の手繰引は豊漁なりしを此の両部落は幾分金融宜しとす。
<水産>
 漁業に就ては其の漁撈法の改良をなすを以て最も急務なりと認め、道具の改良は我に運び難きを遺憾とす。然れども既に信用購買組合を組織したるに因り逐年産業資金の増加を見るべければ之と相俟って漁業者の漁撈法も漸次改良を促すべしと信ずる也。
 漁船の改良を促すと共に切に必要を感ずるは漁港の整備なりとす。而して此沿岸年々船舶の遭難するもの少なしとせず。是は恐らくは日本一の難船場所なるべし。故に本村時に避難港兼漁港の設備はなるべく急速に起工せらるるを望まずんばあらず。
<農林>
 陸上に就ては節米の方法として馬鈴薯耕作を勧奨し、本年は優良なる種薯を長万部村農会より六〇俵取寄せて之を配給し極力多数を収穫すべく奨励しつつあり。本村は山岳多きに付き杉等の建築用材林と櫟等の薪炭林とを区別して造林せんことを勧奨しつつあるなり。日浦の東三吉、尻岸内の玉井長次郎、古武井の中森八治郎、根田内の笹田長吉等の諸氏は熱心なる率先者模範者なりとす。
<教育>
 義務教育の設備として左記四校を有す。
 日浦小学校  二学級
 尻岸内小学校 六学級 内四学級は校舎狭隘の為め二部授業す。
 古武井小学校 四学級
 根田内小学校 四学級 内二学級は校舎狭隘の為め二部授業す。
 尻岸内校は建築悪しく危険を感じ改築を要するに付本年度、次年度を以て準備し、大正十一年度に之が改築をなし、且つ高等小学校を併置せんとす、其の位置改定の要ありとす。根田内校は増築を要するが、之は古武井校と合併することとし、根田内の高台西部に地を図して位置を指定するを要すべし、而して道路改修は一般交通の為めのみならず、児童通学を容易ならしむる必須条件なりとす、両校合併の暁には高等小学校の併置をなすを得べし。
<衛生>
 本村住民の衛生思想は極めて低きなり伝染病は殊に多し、一名の医師開業するも信用厚からざるに村病院の設立を要することなるが、今日の場合は隣村の医師を迎えて診察を受け居る也。
<消防>
 火防設備は兎に角間に合うだけのものはありとす、本年は七百余円を以て補罐修繕をなすこととせり。
<納税>
 本村は函館支庁管内に於て有名なる滞納村なり、村民納税の義務観念幼稚なること、久しき間村の当局に人物を得ざりしことに由るものとす。
 本村長、昨年八月赴任即下小学校教員の月奉支払に困難を告げたるに付、村政整理の第一着手として役場の全力を挙げて徴税事務を励行せり、固疾となれる滞納の悪習慣を打破することなれば屡々不心得者を召喚して説諭を加ふる等最も面倒を見たるなり、是を以て徴税事務は漸々良好を来たし、三月末に於て村税の未納は約千円となり。本村に於ては稀有の好成績を挙げし也。
 昨年より納税組合の組織を勧奨し本年四月より実施することとして、各部落に於て之が組織をなさしめたるに左の如く成立を告げたり、五月の賦課に於ては集まり方甚宜し。
 日浦一組、尻岸内二組、女那川三組、根田内六組、磯谷一組 古武井目下協議中。
<交通>
 本村は創始約二百五十年を経たりと想像する所なるが、陸上の交通はアイヌ時代の路線に依り、人は草鞋を穿ちて歩行し貨物は僅少宛馬背を以て運送せらる、而して冬季は風雨激しき時は郵便物延滞し甚しきは小包の如き三四週間に延着すること珍しきに非ず。函館より恵山に至る一帯の地は国防上重要の地点なるを以て軍事上の目的を第一として道路開さくの急施を要するものと認め本村会は昨年秋道庁長官に意見を具申し置きたり。海上の交通も至て不便にして冬分荷物の多き時は函館より発動機船の往復あれども夏季は荷物少きを以て其の往復も甚少とす。依て本村にては有志相謀り椴法華、戸井西村有志の賛成を得て海運会社を組織し、以て海上交通の便利を進むると共に漁業の発達を促さんとす。
 
 以上に記したように藤原の村政に対する行動力と熱意に、全村民は更なる期待を寄せていたが大正10年2月19日、湯川村長を命ぜられ多くの人々に惜しまれながら離村する。
 
第8代村長 斎田巳之吉(大正10年4月26日~11年11月14日)
 斎田巳之吉は滋賀県伊香保郡北富永村の出身、15才の時京都大亦塾で漢学を学び軍人を目指し19才で陸軍教導団に入隊、軍曹に昇進するが家事都合により除隊、明治30年来道、小樽外6郡役所に奉職・勤務の傍ら文官普通試験を受けて合格(キャリア)する。
 その後、同31年河西支庁(現十勝支庁)に勤務、土木・調度係・物品会計官・歳入歳出現金出納官・土木係長を歴任、その間、早稲田大学講義録(校外生徒)で政治経済学を学ぶ。同39年10月北海道庁を辞し、翌40年5月樺太庁に勤務、拓殖課・土木課に勤務、後大正3年に樺太庁を退職、同4年3月磯谷郡南尻別村長に就任したが翌5年3月辞任し小樽区役所勤務、同7年1月辞任し仁寿生命保険会社に入社、同9年7月同社退職し浪人中、大正10年4月26日尻岸内村長を命ぜられ赴任する。
 斎田は名村長藤原の後任として、また、多才な職歴からも期待されての赴任であったが、第1次世界大戦の反動的不景気を受けた貧困財政を抱え、斎田の描く「教育・産業」の構想は何一つ実現できず、僅か1年半足らず、翌11年11月14日尾札部村長を命ぜられ離村する。
 なお、斎田は転任に際し自分の教育・産業についての構想を『事務引継書』に次のように記している。
 
一、学校増築・教員配置に関する件
 本村根田内小学校の逐年の就学児童の増加に伴い、校舎狭隘にして教授上大いに支障あるを以て、大正十年度に於ける校舎模様替及び教員事務室の増築を行い一教室を増し訓導一名を任用の上、二部授業を廃止せんとせしも村会の否決する処となり甚だ遺憾の次第に付、相当計画の下に之が復活せられんことを望む。
二、植樹に関する件
 本村の海岸及び渓沢は森林漸く乏しくなり薪炭及び用材等々困難しつつあるのみならず、漁村として最も必要なる魚付に重大なる影響あるを以て、平和祈念の為め魚付林造成せんと大正九年の村会に諮問したる結果賛成可決せられたるに依り、大正十年度より実行に着手すべく苗圃の設備を計画せるが、本年の村会に於いて一時見合すことに決定せられたるに依り再考せられんことを望む。
 本村有林は従来多少の植林せしも未だ充分なりと認め難く殊に天然木の相当生長せしを以て之等伐採の上杉・松を植林するは尤も適当と認められ、また、白髪爺沢村(現字高岱)有林は全く荒廃に属するを以て適当なる樹種を道定造林せられんことを望む。
三、新田設置に関する件
 本村は気候稍々冷気なるも溜池を築き用水を暖むる方法を講ずる時は将来水田の有望なるを認め、明治神宮鎮祭祈念事業として水田を設くることを大正九年本村会に諮問可決するを以て、大正十年に於いて二反歩開墾すべく村会に付議したるも一時見合となりしを以て其の実行を勧奨し、女那川及び古武井部落に稲作普及相成度し。
 
第9代村長 武石胤介(大正11年11月14日~14年10月20日)
 武石胤介は秋田藩士族、大館町の生まれである。地方行政の振出しは明治33年銭亀沢石崎村戸長役場次いで、銭亀沢村役場・室蘭町役場を経て、同36年6月銭亀沢村収入役就任、さらに同43年8月戸井村収入役を務める、その後大正6年12月松前郡根部田外4ケ村戸長、同8年1月松前郡大島村長を務めたが、同年7月職を辞し松前水力電気会社に入社、翌9年2か月間務めた後、室蘭区立病院に勤務、同11年8月本庁の室蘭市役所へ転勤3か月勤務後、同11年11月14日、尻岸内村長を命ぜられ本村に赴任する。
 武石村長の業績は前村長斎田の引継ぎ事項にもあった、年来の宿願であった尻岸内小学校校舎の移転改築、尻岸内・根田内小学校への高等科設置などを数多く残る。
 大正14年10月20日落部村長として転任するが、次に記す『事務引継書』に武石の業績の一端を窺うことができる。
 
一(道路に関する件)、湯川・椴法華村間道路開削に付き屡々陳情請願をなし三ケ所、戸井村・尻岸内村・椴法華村に金壱万五千円を寄付し、本村負担額六千三百円の内三千五百円を支出し一部の路線に着手したるも工事中の難工事たる日浦・尻岸内の両峠の路線に差掛かり当局も憂慮しつつあり、之が完成を期せんには再三再四出札陳情請願の要ありと認む。尤もこの路線の完成の暁には本村利便莫大なるのみならず国家的利益多大なりと思考し宜しく考査の上速やかに実行せしめられんことを希望す。猶(なお)又本路線より分岐する根田内磯谷方面(字恵山・御崎方面)の道路も地方費補助道路として陳情請願あらんことを望む。
一(教育に関する件)、教育上に於いては多年の懸案たる校舎改築及び増築は略竣工したるも年々児童の増加著しく且つ又本年度より高等科を併置したる為め狭隘を告げ尻岸内・根田内の両校には教室の増築と教員住宅の設備とを要し、猶両校の内容に於ては該校教材の理科器械の設備の必要あり。是等は明年度より着々購入計画を樹て充実せしめられたし。
一(同上)、尻岸内校教員住宅は旧住宅の模様替をなし一戸分として建設する為め予算に計上したるも豊漁の為め遅延しあり、之は尻岸内部落長浜田伊三郎に嘱託しあるを以て時期を見計い相当処置ありたし。
一(同上)、日浦小学校屋根トタン葺替は見積書を徴し下命しあるに依り出来の上は検定受け渡をなし代金は(日浦部落)部長東三吉の繰替に係るを以て第二期戸別割徴収の際支払ありたし。
一(役場庁舎・吏員住宅に関する件)、役場庁舎及び吏員の住宅は明治三十六年の建設に係わるものにして腐朽も甚しく且狭隘と不足なるを以て早晩改築の要ありと認むるを以て考究計画の上新築のことに取計われたし。
一(上水に関する件)、古武井は飲料水粗悪にして健康上有害と認むるに依り、本年豊漁を期とし相当計画施設するの措置を取計われたし。
一(青年団活動に関する件)、尻岸内連合青年団は本年第一回陸上競技大会を開催したり、其の結果共同心を向上し青年の志気を鼓舞し又部落民一般の運動熱を振起せしこと顕著なり年々之が開催を望む。
一(土地問題に関する件)、女那川中川原は部落民一同と其の一部少数部落民とが売払出願者ある為め部落との紛擾(ふんじょう)を来す恐れあり、相当時期を見て村有として出願せられたし。
一(橋梁に関する件)、女那川架橋は最近橋脚腐朽し部落民往来に甚だ危険の状態なるを以て曩(さき)に函館土木事務所へ庁員を派遣調査の上修繕方交渉中なるも何等の回答なき故至急着手方取計われたし。
 
第10代村長 菅原直治郎(大正14年10月20日~昭和2年11月15日)
 大正期の村長菅原直治郎は、岩手県西磐井郡平泉村の出身で、明治29年故郷の平泉村役場に奉職、同31年には収入役に就任する。同35年任期満了に伴い退任。明治40年3月北海道在住の先輩に招かれ上川郡名寄外三ケ村戸長役場に勤務、同42年4月には空知郡上富良野村長に抜擢任命されるが僅か半年で退職、同年9月札幌郡手稲村に勤務。同45年5月国後郡大滝村戸長を命ぜられ、大正3年には同郡の・東沸・米戸賀・秩父別諸村の戸長も兼務することになる。同5年3月には花咲郡歯舞村長、同8年留萌郡鬼脇村長、同9年6月山越郡長万部村長、同11年1月茅部郡落部村長を歴任し、同14年1月20日付で尻岸内村長を命ぜられ赴任する。
 明治42年以降、およそ20年の長期にわたり8カ村の戸長・村長を務めた大正期最後の第10代村長菅原直治郎はまさに地方行政の超ベテランといえよう。菅原は2年2ケ月の短い期間であったが、武石前村長よりの引継ぎ未了事項の解決(大正15年の尻岸内小学校の教室増設・職員室増築など)に鋭意取組むと共に、本村の実情をつぶさに把握し、将来の村政の展望について事務引継書の中に屡々記している。なお、将来を期待されていた菅原であったが、昭和2年11月20日、突然、一身上の都合を理由に退職している。
 
 『菅原村長の事務引継書』
一、管内(村内)教育上に関する件
 管内は尋常高等小学校二ケ所、尋常小学校二ケ所にして年次増加の傾向あるは洵(まこと)に喜ぶべき現象なり、然るに現在児童数に依るときは尻岸内校及び根田内校の如きは更に増築の必要を認めらる。而して尻岸内校七学級、根田内校は六学級にして未だ屋内運動場の設備なきが故に校舎破損甚しく明年度之が設備計画をなさんと考慮中に属し御視察の上適当の計画を樹てられんことを望む。
一、古武井校に高等科設置の件
 本校に高等科設置の件に付いては本年、中森伊三郎外二名より建議案提出せられ村会に諮りたるが委員会に於いて必要認むるも財政の関係上明年度に延期のことに決したり、実況調査の上計画あらんことを望む。
一、実業補習学校に関する件
 地方の実況に鑑み実業補習教育の必要は言を俟たざる所なり。然るに当管内(村内)補習学校の状況を観察するに其の性質根本を誤まれるものの如し、従来の成績を見るに退学後の青年は殆ど入学するものなく高等科生徒の部分夜学をなし居る状態にして殆ど廃止同様なり、之が改善を構せられんことを望む。
 而して昨年七月より青年訓練所を各学校設置し実習補習学校設置し之れと同時に奨励に努めつつあり宜しく実況を視察せられ適当の方法を講ぜられんことを望む。
一、函館椴法華間準地方費道路速成に関する件
 本件大正十一年以来、戸井村・尻岸内村・椴法華村より村連合にて一万五千円寄付の条件を以て開削請願をなし本村は本年度八百円寄付を以て完了すべく目下延長起工中なるも之が速成に関し一段の努力あらんことを望む。
一、函館椴法華間準地方費道を地方費に編入請願の件
 本路線起工中なるも遅々として進行せざるを以て本年十月、関係村湯の川、銭亀沢、戸井、尻岸内椴法華各村連名地方費編入請願書提出中に付き之が目的貫徹せられんことを望む。
一、本道路改良補助工事施行の件
 本年度より二年度継続事業として町村道字古武井より字磯谷に至る村道改修の計画を樹て本年度は字古武井間補助工事中にして充分御監督の下に完成を期し度、尚本年中根田内・磯谷間実施測量をなし明年度直ちに補助申請の手配中にして設計は従来函館市新川町川土務所に依托しあるを以て同氏へ依托中なり。
一、道路災害復旧補助申請の件
 本年七月二十二日降雨のため道路石垣破壊せられ村民の負担に耐え兼ねるを以て、十月二十七日字古武井間災害復旧補助申請中に付き不日認可の見込なるを以て之が施行の御計画あらんことを望む。
一、漁港修築請願の件
 本村は大正八年八月字古武井女那川港を道庁員派遣せられ調査を了せられ其の後年々請願に陳情に公職有志出札其の筋の了解を得べく努めつつあるも未だ実現の運びに至らず、本問題は本村開発促進のみならず国家経済上黙すべからず問題にして視察調査の上実現に努められたし。
一、村有財産林施業案編製の件
 昨年より施業案編製申請中の処本年道庁技手派遣せられ実地調査終了せり適当の措置を講ぜられんことを望む。
一、女子青年会組織
 本春以来各学校長と協議をなし尚時々組織に関し通達せり、最近根田内・尻岸内・日浦各学校長も夫々配慮中なれば一層勧誘せられんことを望む。
一、神社昇格稟請の件
 字日浦日浦神社は本年一万円以上を投じ新築せり敬神思想普及上之が昇格稟請せられんことを望む。