函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第3編 行政

第2章 明治・大正時代の行政

第1節 箱館裁判所から開拓使まで

4、戸籍法と大小区画制の施行

戸籍法の制定
 中央集権国家をめざす新政府は、国家の最も基本である国民の掌握のため、明治4年4月4日、太政官布告により我が国初めての『戸籍法三十三則』を制定、同年10月3日、江戸時代より続いた、いわゆる現在の戸籍でもあった寺請制度の宗門人別帳を廃止する。
 この宗門人別帳とは、幕府がキリシタン禁制を徹底するため、檀那寺に当該全住人の仏教檀家(宗派)証明をさせる制度(寺請制度)を設け作らせたもので、戸別に家族名を記載し寺の請印を押印し届出る仕組みの帳簿である。これは、宗門改めと同時に戸口調査(悉皆調査)も兼ねており現在の戸籍でもあったが、明治新政府は「神道国教政策」を進めるためにも寺請宗門人別帳の廃止はしなければならなかった。
 蝦夷地・北海道の宗門人別帳については、確かな記録は見当たらないが寛政以前からあったといわれている。箱館六ケ場所では村並認可の享和元年(1801年)から作られたと推察する。なお、郷土尻岸内の宗門人別帳は不明であるが、明治3年の尾白内村(現森町)のものが森町史に記載されているので、資料編に抜粋転載する。
 明治5年(1872)2月1日より政府は新法に基づく戸籍作成の実施にはいる。
 この我が国初めての戸籍事務は、当初、大蔵省に戸籍寮を設け所轄した。新政府は維新政策を進めて行くために国家予算を確立すること、そのために戸籍を掌握し税収の見通しをたてるのが急務であった。戸籍簿作成の明治5年に、各村に具備しなければならない諸帳簿として、次のものがあげられている。
 ①村絵図(地理地名・方位・道路・交通・集落、会所や主な建物など)
 ②村鑑帳(村の産業・産物・事業、面積、距離・交通・方位、米の取高反別、牛馬数)
 ③戸籍簿
 ④五人組
 ⑤小前名寄帳(1人毎の米の取高反別・財産など)
 ⑥年貢諸夫銘取立帳
 ⑦年貢諸夫銘勘定仕上帳(課税台帳・徴収簿)
 ⑧その他ご用留帳
 以上の帳簿には課税・徴税についてのものが多く見当たることからも、新政府のこれ(戸籍簿作成−徴税)に当たる強い意図が窺える。
 開拓使も政府の方針を受け、明治5年(1872)1月、戸籍簿の作成に着手する。
 この初めての戸籍簿は、編成の年(明治5年)の干支・壬申(じんしん)に因み、通称『壬申(じんしん)戸籍』と呼ばれた。
 
郷土尻岸内村の壬申(じんしん)戸籍簿
 郷土尻岸内村の壬申戸籍の存在については定かではない。作成できなかったとも考えられる。昭和45年(1970)発行の尻岸内町史に記載されている最も古い戸籍は、本村尻岸内は明治9年のものと思われ、枝郷根田内・古武井については明治6年1月のものである。また、枝郷日浦についての記載はない。この明治5年は、郷土に大変な事件のあった年で、新戸籍簿の作成にまで手が回らず完全には出来なかったのではないかと考える。この事について少し触れる。明治5年3月、札幌本道(現国道5号線)建設の関係者ら5百人余りを乗せ、東京から函館へ航海中であった開拓使の東京丸(1400トン)が、郷土女那川沖に坐礁・沈没という未曾有の海難に見舞われたのである。村民、村役人はその救助や事後処理に長期にわたり相当の労力を費やしている。(詳細については海難の章参照)
 なお、尻岸内町史に記載されている戸籍一覧表(壬申戸籍といわれているもの)については、できうる限り検証し整理・補足し資料編に記載する。
 
 <戸籍簿の様式>
 
 「表書」 紀元二千五百三十三年
    明治六葵酉年第一月
   開拓使管轄 渡島茅部尻岸内村戸籍簿
                           古武井
                           根田内
 
 「戸別例」
               四十四番屋敷居住
        農
            実父陸奥國三戸郡湊村農□□□□亡二男
            養父当國上磯郡札苅村農○○○○○亡
 萬年二己未年五月当所移住加籍         □□□□□
                        甲子三月生
                        葵酉年七十才
                   妻    □□
 萬年二○○○○○亡長女            葵亥二月生
                        同年七十一才
                   長男   同  □□
                        甲申五月生
                        同年五十才
                   四男   同  □□
 札幌寄留                   甲寅四月生
                        同年二十才
 氏神海積社
 函館禅曹洞宗高龍寺
 
 「裏書」
    惣人別二百三十七人内         男百二十六人
                       女百十壱 人
 
大小区画制の実施
 明治5年の戸籍編成は、政府が国民を掌握する施策の1つであるが、これを実施するために「大小区画」を制定、国のめざす中央集権化として、国民を支配し国政事務を荷担させる末端の行政機構とした。しかし、この大小区・行政区画は思惑通りには進まず、僅か4年後の明治9年には改正、それも、その3年後の明治12年には廃止の憂き目を見る。
 
函館支庁管下函館区・渡島4郡の大小区画
 政府の大小区画実施を受けて、開拓使も北海道の大小区画に着手するが、当初、開拓使本庁と各支庁ごとに実施することにする。函館支庁管下については、明治5年2月「函館区」を皮切りに、明治6年5月「渡島東部4郡」同12月「渡島西部4郡」と漸次実施する。
 
<明治5年2月、函館区に大小区画実施>
函館区 1大区 1~5小区 2大区 1~5小区 3大区 1~5小区
                *町村名については資料編に記す。
 (以上、3大区15小区)
<明治6年5月、亀田、上磯、茅部、山越郡に大小区画実施>
亀田郡 4大区 1小区 亀田村・赤川村・神山村・鍛治村
        2小区 下湯川村・上湯川村・鷲巣・深堀
        3小区 亀尾村・志苔村・銭亀沢村・石崎
        4小区 石川郷・桔梗村・大川村・中島村
        5小区 七重村・飯田村・城山郷・藤山村・軍川村
        6小区 一本木郷・千代田村・大野村・文月村・鶴野村
        7小区 本郷郷・市渡村・峠下村・宿野辺村
 (以上、1大区7小区30村)
上磯郡 5大区 1小区 有川村戸切地村・中野郷・濁川村・清水村
        2小区 吉田郷・三谷村・三好村・冨川村・茂辺地村・当別村
        3小区 三石村・釜谷村・泉沢村・札刈村・木古内村・瓜谷村
 (以上、1大区3小区17村)
茅部郡 6大区 1小区 小安村・戸井村・尻岸内村・尾札部村支郷椴法華
        2小区 尾札部村・臼尻村・熊村・鹿部村・砂原村・掛澗村
        3小区 尾白内村・森村・鷲ノ木村・落部村
 (以上、1大区3小区13村と1支郷)
山越郡 7大区 1小区 山越内村
        2小区 長万部
 (以上、1大区2小区2村)
 
<明治6年12月、西部4郡(旧館県)の内、福島郡、津軽郡に大小区画実施>
福島郡 7大区 1小区 知内村
        2小区 福島村
        3小区 白符村・宮歌村・吉岡村・禮髭村
 (以上、1大区3小区6村)
津軽郡 8大区 1~5小区 小松前など11村
    9大区 1~7小区 福山・大松前・河原町・川町など7村
    10大区 1~3小区 寅向町・大沢村・炭焼沢村など7村
    11大区 1~3小区 根部田村・赤神村など8村
 (以上、4大区18小区33村)
 
戸長役場制
 戸籍法、大小区画と、政府は国民の掌握・財政の見通しを立てる施策をもつと同時に、その実務を担う役人を選任するため、明治5年4月、太政官布告117号により、幕政下の町村役人制を廃止し「戸長役場制」を施行する。これにより、従来の「名主・年寄・小頭・百姓代」といった村役人は廃止され、戸長・副戸長・村用掛が任命され、村方三役の行っていた慣習的な自治的業務を司るとともに、新たな戸籍簿作成や開拓使・下部行政機関として法規に基づく業務を担当させられることになる。
 函館支庁の戸長・副戸長の任命は、明治5年2月29日函館区の3大区に戸長・15小区に副戸長を置いたのが最初である。
 
渡島東部4郡の副戸長と村用掛
 渡島東部4郡、亀田・上磯・茅部・山越郡に副戸長と村用掛が任命されたのは、大小区画が実施された明治6年の9月である。そのときの布達は次の通りである。
 
亀田郡、上磯郡、茅部郡、山越郡右四郡今般別紙之通大小区画相定、就(ついて)而ハ名主ノ名義ヲ廃シ候間、今自副戸長ト相唱可申並年寄、小頭、百姓代之名義是亦相廃シ右三号とも壱村限り壱人或は二人宛村用掛ト相唱人頭申出、尤勤向従前之通たるべく事。
 右之趣村中へ無洩可為心得もの也
  明治六年五月          開拓中判官   杉浦  誠
        『支庁布達々書原稿』 明治6年(道立文書館蔵)
 
茅部郡6大区1小区の村役人
 茅部郡6大区1小区の副戸長・村用掛について、明治6年「戸井往復・民事課」には次のように記されている。
 
 民 事 課              戸井詰 印(戸井村出張所)
戸井持場内村々副戸長並ニ村用掛リ姓名別紙ノ通リ御座候間此段御届申候也
 明治六年第九月
 開拓使管轄渡島ノ國六大區茅部
 一ノ小區小安村     副戸長       飯 田 藤 吉
             村用掛       石田源右兵衛門
             同         巽  權 八
             枝郷釜谷村村用掛  吉田佐次右兵衛門
             同 汐首村村用掛  松 田 徳太郎
             同 瀬田來村村用掛 館 山 喜兵衛
 同 戸井村       副戸長       池 田 六 助
             病氣ニ付部理代人  池 田 彦九良
             村用掛       谷藤角右兵衛門
             枝郷鎌歌村村用掛  佐々木 辰五郎
 同 尻岸内村      副戸長       増 輪 半兵衛
             村用掛       坂 井 善 次
             同         西 村 善次郎
             枝郷日浦村村用掛  米 澤 清十郎
             同 古武井村村用掛 福 澤 勝五良
             同 根田内村村用掛 桂 井 官 平
(二小区尾札部村枝郷)  椴法花村村用掛   佐々木 弥三郎
             同         佐々木 久 七
             同         川 口 勝次郎
 右之通り御座候以上
 明治六年第九月
             明治6年『戸井往復』民事課(道立文書館蔵)
 
 この布達によれば、6大区1小区の村役人は副戸長・村用掛で、戸長は任命されていない。同じ6大区、2小区(熊尾札部臼尻・鹿部・砂原・掛澗)、3小区(尾白内・森・鷲ノ木・落部)をみても副戸長・村用掛はいるが戸長は任命されていない。つまり、茅部郡下には戸長は存在しなかったのである。また、6大区でありながら区長も存在していなかった。
 このように、支庁ごとに大小区画は定めたが、この時代「区長−戸長−副戸長・村用掛」という行政の重層的な機能を果たす組織化(タテの管理・命令系統)までには至らなかったのではないかと推測する。つまり、行政組織自体が試行錯誤の時代であったのであろう。
 また、大小区画は設定されたが、行政管轄は各地の出張所管轄のままであった。
 例えば、宿野辺村は亀田郡の4大区7小区に区画されたが実務は6大区の森出張所。落部村は6大区3小区にありながら7大区の山越内出張所管轄。椴法華は本村が6大区2小区(尾札部村)であるが1小区に区画され戸井出張所管轄というように、極めて複雑な行政区分となった。ただ、椴法華の場合は住民にとって都合のよい措置と思われる。
 このような実態から、開拓使は全道的規模で大小区画設定することとし、まず、明治7年2月、各支庁あて次のような指令を出した。
 <大小区画は>
 一、戸籍簿作成が目的であること。
 一、施行は各本支庁権限で行うこと。
 一、一カ国ごとに一郡一大区を原則とすること。
 一、小区は適宜設定すること。
 そして、明治9年9月8日、これまで、本庁、各支庁ごとに施行されていた大小区画を全道1本に統一「北海道大小区画」として実施することとした。
 
北海道大小区画制の実施
 明治9年9月8日にだされた「北海道大小区画」実施についての布達は次のようなものであり、僅か4年で改正する理由も(勿論、問題点も)何も書かれてはいない。
 
  乙第七号
 当管内大小区画別冊ノ通相定候条此旨布達候事。
       明治九年九月八日  開拓長官 黒田 清隆
 
 この布達(別冊)により、全道大区30区、小区166区が設定された。
 渡島東部4郡については、次に記す。
 
 第十三大区上磯郡(二小区一七村)・旧三小区一七村
 第十七大区亀田郡(四小区二九村)・旧七小区三〇村
 第十八大区茅部郡(三小区一七村)・旧三小区一三村と一支郷
  同  一小区  小安村・戸井村・尻岸内村*椴法華
      *椴法華村、尾札部村より(九・一・一七)一村独立
  同  二小区  尾札部村・臼尻村・熊村・鹿部村・砂原村・掛澗村
  同  三小区  尾白内村・森村・鷲ノ木村*蛯谷村
          *石倉村・落部村
      *宿野辺村、亀田郡から(八・一一・一三)茅部郡へ区画変更
      *蛯谷村*石倉村、鷲ノ木村より(九・一・二三)一村独立第十九大区山越郡(二小区二村)・旧二小区二村
 
北海道大小区画制の村役人
 明治9年9月8日の「北海道大小区画」実施に先立ち、大小区役人の人事改撰を示す文書が「明治8年分 民事課往復留」(道立文書館蔵)内に存在するので、関係分(第18大区の小安村・戸井村・尻岸内村・椴法華)について記す。
 
明治八年分  民事課往復
 戸長事務追々多端ニて其任ニ不堪モ有之ニ付更ニ改撰可相成ニ付而ハ正副戸長惣代置場并人物等約實地適應之見込大至急可申越可成ハ土地之者相用度候へども若適宜之者無之候ハゝ於御課人撰申付候義も可有之旨御達之趣了承致候當持場内村々之義小安戸井尻岸内三ケ村之義ハ従来之副戸長副惣代ニ被成度出張所在之戸井ハ戸長壱人等外二等位ニ準ジ候者被立置御用向始諸書出物など右戸長ニ於調査之上出張所へ差出候掛被成置候ハゝ可然哉と被考候其他村用掛等遊人在之候而モ昔實は却而煩雑ヲ醸シ無詮之義ニ付四ケ村共に事馴御用弁達者壱人も被之置餘は被減度椴法花之義尾札部村枝ニて本村ヨリハ陸路往返不相成海路三里ヲ隔居リ且、隣尻岸内村ヨリハ惠山之崎を越へ山間之一海濱孤立も同様之場所ニ候へバ自然人氣も一定不致加ルニ村用掛リ耳(のみ)ニて区内取締罷在候得ども其任ニ堪候者ニ無之事ニ寄不都合も多少在之候間同所之義ハ各村ニ被成替副惣代壱名被立置度依之正副戸長惣代置場并人撰共別紙に申上候間何分御指揮被下度此段相伺申候也
 明治八年七月廿一日
                 戸井在勤  渡辺 光友  開拓使三等出仕  杉浦 誠 殿
                                     (道立文書館蔵)
 
 正副戸長惣代置場并人撰見込        明治八年七月二一日付
一戸長  壱人  戸井村
 但戸井村へ等外二等ニ準ズル者壱名ヲ置キ小安尻岸内椴法花等之事務ヲ総理セシム尤当地に於て適宜之人物無之候間相当之者御廻し被した度
一副惣代 壱人  同 村
 但従来副戸長池田彦九郎被据置度
一 同  壱人  小安
 但 同上  飯田藤吉被据置度
一 同  壱人  尻岸内
 但 同上  増輪半兵衛被据置度
一村用掛 壱人  戸井村
 但従来□□□□ヒ仰付置候処右之内水戸忠吉被据置餘ハ被廢度
一 同  壱名  小安
 但同上持村共ニ五名ヒ仰付置候処右之内石田源右衛門ヒ据置餘ハ同上
一 同  壱名  尻岸内
 但同上枝村共ニ四名ヒ仰付置候処右之内村岡定(ママ)九郎被据置餘ハ同上
一副惣代 壱人  椴法花 *椴法華の一村独立は九年一月十七日
 但当所ハ尻岸内村ヲ隔□□此間嶮道ニシテ彼我の情實ニ不通不便利之土地ニ付着實ナル副惣代被置候様致度尤人物之儀ハ同村在籍之者を相撰度候
一村用掛 壱人  同 所
 但従来三名ヒ仰付置候処右之内佐々木弥三郎被据置餘ハ被廢度
一 前文戸長并副惣代等之義見込之通被仰付候義ニも候ハゝ月給等之義ハ各所同様官より御支給相成下度
 *線内の文書は朱消されているが人件費は開拓使から支給されたと推察する
右の通り人撰見込申上候也
 明治八年七月
                                     (道立文書館蔵)
 
 この文書から、北海道大小区画実施のためにの役人人選の手続きが(1小区の戸井出張所では)前年より進められ、明治8年7月、開拓使函館支庁に予定者(役職名・勤務地)を推挙していたことが分かる。
 なお、これによれば、
 
・戸長について、1小区に1名の戸長を任命する。勤務地は戸井村とする。但し戸長は等外2等に準じる者(行政職として経験・力量のあるもの)とする。
・副惣代について、従来小安・戸井・尻岸内の3村に置いた副戸長は副惣代とする。椴法花は枝郷であるが、地理的条件から3村に準じ副惣代を置く。
・村用掛について、従来、3村とも複数配置していた村用掛を1村1名とする。椴法花も3村に準ずる。
 
以上が改定(案)の要点である。
 この「正副戸長惣代置場并人撰見込」では、新たな職務の副惣代には従来の副戸長職にあった者を、新たに1村1名とする村用掛については従来の村用掛(複数配置)の内1名を、それぞれ推挙している。なお、1小区1名(戸井村配置)の戸長の推挙については氏名の記載がなく「当地に於て適宜之人物無之候間相当之者御廻し被した度」とあり、等外2等に準じる行政職の力量ある者が小区内に見当たらなかったものと推察する。
 
副戸長の差免と村用掛の任命
 北海道大小区画施行実施の5か月前、これに関わる役人の改廃を行っている。
 
・明治9年4月18日、渡島東部4郡の副戸長を差免する。
・明治9年5月20日、あらたに各村(椴法華を含む)1名の村用掛を任命する。
 
 なお、渡島東部4郡の村用掛は、先の明治8年7月21日付「正副戸長惣代置場并人撰見込」・村用掛推挙者にある通り任命されている。
 
 <明治九年五月二十日発令の第十八大区一小区の村用掛>
 戸井村 水戸 忠吉    小安村 石田源右衛門
           (明治十年三月には藤川留松となっている。)
 尻岸内村 村岡清九郎   椴法花 佐々木弥三郎
 
 全道大小区実施に先立ち、早々と村用掛が発令されたのは、この職務が各村の行政事務の実務責任者であるということ、すなわち、この大小区画の目的を把握し全道大小区実施前に、移行事務を速やかに行わせることを考慮しての発令かと思われる。
 
村用掛の選出
 全道大小区画制においての村用掛は、村の戸籍事務をはじめ実務担当者として相当の職務を負わせられていたことが、(町保存の明治10~12年当時の)開拓使・函館支庁への報告物などから窺える。すなわち、村用掛は村行政の責任者であると同時に、政府−開拓使−出先機関の行政職でもあった。
 この村用掛は、初め開拓使函館支庁民事課戸籍係によって任命されていたが、後に(実施時期不明・10年以前と思われる)村民(戸主)の選挙によって選出されるようになった。
 明治12年5月の函館支庁民事課の布達に「村用掛の選出」の定めがある。
 
『上局 主裁録』
 甲第拾壱号    戸籍係
    九等属  桜庭為四郎
 村用掛並総代人選挙の件
従来各村 村用係選挙之儀ハ村中協議之上願出来候得共、其協議タルヤ有名無実ニ陥リ候テハ不都合ニ付向來 村用係選挙ハ勿論一同ノ所見ヲ採リ候節、必ず該区担当ノ正副戸長ノ内壱名該村ヘ出張 戸長ノ面前ニ於テ投票セシメ右終ルノ後 戸長ハ選挙人ノ面前ニテ之ヲ開緘当否ヲ定ベシ、當村用係を撰定スルノ時ニ當リテハ投票ノ当否ヲ査シ村用係タルヲ得サルモノアル時ハ 順次投票ノ多數ヲ採リ戸長ヨリ具状候様可致取扱向心得仮定スル左之通
一 明治十一年六月乙第拾九号本使布達総代人撰挙法第二条第壱第三項ノモノ並教導職被雇人等ハ村用タルヲ得ズ
一 撰挙人ハ弐拾年以上ノ男子ニシテ前条ニ掲ゲタル第一第二第三項ノホカニ然ザルモノトス
一 村用係撰択其他投票セルトスル場合ニ於テハ豫メ日數ヲ計リ前以村内ニ報告シ、日限戸籍係ヘ通報スベシ、投票ノ当日係臨時立合可致又數村ニ渉タル事件ハ投票者日差閊(つか)ヘル無之様日割シ同様取計可申候
 右之趣旨区内一同ヘ兼テ心得サセ置可申此旨及御通達候也 函館(支庁)民事課戸籍係
 明治十二年五月十四日
十三大区 第十七・第十八・第十九・第十八大区壱小区扱所
各大区役所
                                 (道立文書館蔵)
 
 職務内容からみて行政職である村用掛を、選挙により選ぶ方法をとったのは行政事務、とりわけ戸籍・賦課に関わる事務を行う上で、村の実態をよく掌握していると同時に、村民に信頼のある人物でなければならないと考えての措置と推察する。
 明治9年5月20日発令となった尻岸内村村用掛村岡清九郎は、選挙により選出されるようになってからも、親子2代にわたり村用掛に選ばれ村の行政・発展に貢献した。
 なお、この布達にある「総代人」については選挙法を含め後述する。
 
副惣代の任命と副戸長
 村用掛については先に述べたとおりであるが、明治8年7月21日付の「正副戸長惣代置場并人撰見込」にある、正副戸長・副惣代の発令については不明の点がある。
 砂原町史には、全道大小区画実施にともない、各大区に区務所を設置して、戸長、副戸長をあらたに任命したとある。また、椴法華村史には、明治9年4月18日、従来1村ごとに置かれていた副戸長を廃し、第18区に1名の戸長と同一小区の村々に4名の副戸長、その他各村に1名の村用掛が任命された(小村では副戸長と村用掛の兼務もあった)。椴法華村ではこの時から副戸長と村用掛が兼務となり、以後佐々木弥三郎の役名は村用掛あるいは副戸長と混用されるようになっていった。とあり、次のように、等級・職名・氏名が上げられているが、これを確認できる資料を見付けることができなかった。
 
 <第18区1小区(渡島茅部郡)>
 等外3等   小安村副戸長   飯田 藤 吉
  仝    戸井村副戸長   池田 彦九郎
  仝    尻岸内村副戸長  増輪 半兵衛
  仝    椴法華村副戸長  佐々木弥三郎
 この、椴法華村史に任命されたとある、小安、戸井、尻岸内各村の副戸長は明治8年7月21日付の「正副戸長惣代置場并人撰見込」で、「副惣代」に推挙されている明治8年現副戸長であり、椴法華村の佐々木弥三郎は同じく見込書で村用掛に任命されている。ところで、全道大小区画制が実施された明治9年9月8日以降の9年11月、開拓使函館支庁へ提出されている「昆布場及取獲高調・漁場所及取獲調(道立文書館蔵)」の尻岸内村分を見れば、戸別報告者に連記し「村用掛」村岡清九郎「1小区副惣代」増輪半兵衛の氏名捺印があり、戸井村分については同じく報告者に連記し「村用掛」水戸忠吉「1小区副惣代」飯田藤吉の氏名捺印が見られる。副惣代の飯田藤吉は椴法華村史によれば小安村副戸長に任命されている。また、同じく9年11月の「海産干場所有主居宅調(道立文書館蔵)」では、尻岸内村分の戸別報告を一括し、村用掛村岡清九郎・副惣代増輪半兵衛・同飯田藤吉が捺印、3名の連記報告となっている。同調書の、椴法華村分については村用掛佐々木弥三郎・副惣代増輪半兵衛・同飯田藤吉の3名連記、同じように捺印し報告している。
 因みに「昆布場及取獲高調」の内、昆布取獲高調書は、全戸別、調査期間は明治5年に遡り9年までで、①使用船の形式と隻数、②昆布採取人数、③昆布採取場所、④明治5~9年までの年別取獲高(石・斗・升・合まで)を求めている詳細な調査・報告である。また、「海産干場所有主居宅調」の内、居宅地調は、①居住地番号、②取得年月日、③敷地坪数(間口・奥行きの間数も記載)、④家屋坪数、⑤雑小屋など付属施設・坪数(間口奥行きの間数も記載)、こちらも相当詳細な調査といえよう。いずれも税金の賦課に関わる重要な調査である。当該村直接事務担当の村用掛に加え、4か村全体を掌握する立場−職責として1小区副惣代が確認・捺印しているものと推察する。
 これらの資料から、明治9年9月8日の「北海道大小区画」実施に伴う、第18大区(茅部郡)1小区、小安村・戸井村・尻岸内村・椴法華村の副惣代人事では、明治8年7月21日付の正副戸長惣代置場并人撰見込、推挙されていた(小安・戸井・尻岸内の)3名の内より、飯田藤吉と増輪半兵衛の2名が任命されたと推測される。そして、その職責は、1小区全域に及ぶと規定されていたものと考える。
 
惣代、副惣代の選出
 村用掛が村行政の執行責任者に対して、惣代、副惣代(後、総代人)は、その名称からもそうであるよう、住民の代表者という立場を有していた。現在の村議会議員のような権限ではないにしろ、特定の事項については村の利益を代表する立場から行政への関与が許されていた。そして、また、その選出方法についても、実施時期については定かではないが、住民の直接選挙により選ばれている。このことについては、先に「村用掛並総代人選挙の件」にも述べたが、全道大小区画実施以降の副惣代の選出には、住民の選挙−開拓使の任命という手続きがとられた。
 この惣代・副惣代については、欧米の政治を指向する新政府が、住民代表を行政機構にどう位置付けるか、また、その選挙法など、いわゆる政治の近代化を模索した職務として、重要な関係資料「総代人撰挙法及総代人心得」が存在するので記載することとする。