函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第3編 行政

第2章 明治・大正時代の行政

第1節 箱館裁判所から開拓使まで

2、箱館裁判所(箱館府)と箱館戦争

 1867年(慶応3年10月14日)15代将軍徳川慶喜の大政奉還により、264年間続いた徳川氏の政権(江戸幕府)は終り、同年12月9日、朝廷から王政復古令が出され「明治政府」が成立する。名目的には正式に政権交代が行われたものの、前項で述べたように、1月の鳥羽伏見の戦い、2月の奥羽征討への新政府軍の進軍、そして、蝦夷地へと戦闘は続いている。そんな激動の最中(さなか)、新政府(以下、明治政府と記述)の蝦夷地に対する実支配はどのように行われたのであろうか。この時期は、まさに大変革の期間であり、明治政府の施策も揺れ動きつつ経過しているので、月日に従い記述していくこととする。
 
・1867年(慶応3年12月9日)政権成立後、明治政府の蝦夷地政策は実質的に旧幕府の箱館奉行所に委ねられた。最後の箱館奉行を勤めた杉浦兵庫頭勝誠は勘定奉行を兼ねる逸材で、まず「万一狼藉人(ろうぜきにん)等有之候節は、死力を尽くして保護すべきに付、彼是(かれこれ)の懸念(けねん)なく安居、家業に専念すべし」の触書を出し、鳥羽伏見の戦いや奥羽征討軍などの情報から、流説飛語による人心の動揺や暴動などを防ぐ治安の維持に努めている。箱館奉行の施策があったからかは定かでないが、政変による大きな暴動等の記録は見当たらない。
 
・1868年、慶応4年3月14日、明治政府は「五箇条の御誓文」を宣布する。これは、「一、広く会議を興し万機公論に決すべし。一、上下(しょうか)心を一にして盛に経綸(けいりん)を行うべし。一、官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめん事を要す。一、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし。一、智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし。」の五箇条からなる明治政府の基本政策がうたわれており、天皇が神に誓約する形式で行われている。この形式は3月11日発令の神道国教政策に基づくものと思われる。
 
・五箇条の誓文発布の翌日、慶応4年3月15日には明治政府太政官から「五榜(ごぼう)の掲示」として、一般の庶民に対して5枚の立札、五倫の道の勧め「徒党・強訴・逃散や本国脱走の禁、外国人への加害の禁、キリシタンの禁制」が示されている。これは、いわゆる幕府の御法度と内容的には変わらない庶民に対する禁止事項の提示であり、維新(いしん)と言いつつも明治政府の封建制が示されたものといえよう。
 
箱館裁判所の設置
 明治政府は各地の反政府戦闘という情勢の中でも、蝦夷地の経営、特に、北方警備と国境の明確化の問題、農業・林業・漁業・鉱業等の開発を重視していた。とりわけ、北方問題に関心を寄せていたことは、松浦武四郎に師事し樺太開拓を志し現地を視察した時の箱館奉行小出大和守に、北辺警備と開拓の進言をした岡本監輔を箱館裁判所権判事に抜擢したことでも窺える。
 中央集権国家の樹立をめざす政府にとって、蝦夷地は、新制度を導入し直接支配することのできる最も適した地方であったのである。
 
・1868年、慶応4年4月12日、箱館奉行所を廃止し「箱館裁判所」を開設する。
 箱館裁判所は政府の蝦夷地経営の重要論から開設した役所で、その目的・任務は蝦夷地全域の「行政・司法・外交・警備・開拓」を担当するという総合的な機能を有する、いわば三権を有する役所ということで、明治政府の中央集権国家をめざす性格が如実に現れている。しかし、この役所人事は初めから頓挫する。明治政府は同日付で軍防事務局総督の仁和寺宮嘉彰親王を箱館裁判所総督に、副総督には、ロシア南下政策に対処する蝦夷地開拓の建議書を提出していた侍従清水谷公考(きんなる)(公卿)と土井能登守利恒(越前大野藩主)を任命。さらに、北方警備に強い関心を抱いていた前述の岡本監輔、井上石見ら判事・役職者を発令するが、仁和寺宮嘉彰親王は直ちに辞任、土井能登守利恒も病気を理由に閏4月5日に辞任する。嘉彰親王に替わって清水谷公考(きんなる)が総督となったが、副総督は補充のないまま、14日京都を出発、20日敦賀から船で日本海を北上、26日箱館に着く。
 
・1868年、慶応4年閏4月27日、清水谷公考(きんなる)旧箱館奉行所庁舎に入る。
 恭順の意を表していた旧幕府箱館奉行杉浦兵庫頭勝誠に迎えられ、明治政府箱館裁判所清水谷公考総督は旧箱館奉行所庁舎(五稜郭)に入り、翌日、杉浦より「地方演説書」・「蝦夷地演説書」等の引継書とともに政務の一切が引き継がれる。
 以下、箱館奉行杉浦勝誠より箱館裁判所総督清水谷公考に引継がれた『慶応四年箱館地方及蝦夷地引渡演説書』より、その村名を記す。
 
<村名帳>
箱館町・尻沢辺
 〆 貮ケ所
亀田村・有川村戸切地村・三ツ谷村・富川村・茂辺地村・当別村・三ツ石村・釜谷村・泉沢村・札刈村・木古内村・下湯川村・上湯川村・志苔村・銭亀沢村・石崎村・鍛治村・神山村・赤川村・大川村・七重村・藤山郷・峠下村・市ノ渡村・文月村・濁川村・本郷・中野村・大野村・千代田郷・一本木村・石川郷・城山郷
 〆 三拾四ケ村
(六ケ場所) 小安村・戸井村・尻岸内村・尾札部村・臼尻村・鹿部村・砂原村・掛り澗村・鷲木村・森村・尾白内村・落部村
 〆 拾貮ケ村
 山越内村・長万部
 〆 貮ケ村
 
 これらの引継書・政務の一切が引き継がれた後、清水谷より管轄下の住民に御一新の布告が発せられ、翌日開庁の運びとなる。
 このように箱館では政治の大改革があり、村々の引継ぎが旧幕府箱館奉行から明治政府に行われていたが、六ケ場所・郷土では京都江戸での戦火が風聞で伝わる程度で、村役人などの自治制を含め、村の状況にはさほどの変化は見られなかった。
 
・1868年、慶応4年閏5月1日、箱館裁判所が五稜郭に開庁する。
 開庁した箱館裁判所は直ちに、職務内容を次の7掛、「民生方・文武方・外国方・物産方・勘定方・観察方・執達方」と定め、これらを、それぞれの判事・権判事が分掌することとし、6月3日には「民生方」より、人心の不安を和らげるための安堵の布告が出されている。以上のように、閏5月1日には箱館裁判所が開庁し職務内容の決定・人事も発令し職務を開始したが、中央(明治政府)は、この6日前の閏4月24日、政体書に基づく官制改革を実施し箱館裁判所の名称を『箱館府』に、総督も『府知事』に改称している。
 
・1868年、慶応4年閏4月24日、明治政府は箱館裁判所を「箱館府」に改称する。
 つまり、箱館裁判所・総督清水谷は閏4月5日発令・14日京都を出立しているので、この事実を知らずに蝦夷地の新政府役所を開庁していたわけである。改称の通達が届き管内に告示したのが7月17日であるが『清水谷文書外国局日誌』7月22日の項には「総督殿改めて知事殿(府の長官職名)と相唱候」とあるので、実質的には7月末頃までは箱館裁判所(総督)という名称も使われていたものと思われる。
 
箱館
 閏4月24日箱館府・知事に改称されたことを知らぬまま、箱館府・知事、清水谷公考(きんなる)は閏5月1日箱館裁判所・総督として、蝦夷地における新政府最初の役所を開庁し、通達が届く7月中旬まで政務を行う。
 この間、小樽内騒動(後述)や花輪事件など新政府に対する不穏な動きが続発する。一方、水田地帯の奥羽越列藩同盟(彰義隊と白虎隊の項を参照)が新政府と対峠(たいじ)していたため、蝦夷地への米の移入が途絶え庶民の生活に支障を来し、新政府に対する不信感を募らせていった。そして、(後述するが)10月、旧幕府脱走軍が襲来し、箱館府知事以下は青森へ逃れ、清水谷は箱館府知事のまま青森口総督・脱走軍討伐指揮官に任ぜられた。
 このため、10月以降、翌年の1869年(明治2年)5月、脱走軍が降伏し、清水谷が箱館へ帰還するまで、箱館府は名目だけの実務のない存在となった。この間、明治2年3月、中央政府は、府制を改革し、議事・施事の2局に分け、施事局を庶務・外国・刑法・会計の4掛とした。さらに、1869年(明治2年)7月17日、東京・京都・大阪の3都以外の「府」を廃止し「県」とする旨の布告をし、同24日、箱館府は廃止された。この府廃止の通達が届いた時点で、箱館府内部では箱館県となったと理解したらしく、以後、1869年(明治2年)9月30日「開拓使」出張所が箱館に開設され、事務を引継ぐまで県名の文書が多数出されていたが、この時期に、県とする旨布告された形跡はない。3県(札幌・函館・根室)の行政区画が設置されたのは、開拓使廃止後の1882年(明治15年)2月から1886年(明治19年)1月までの4年間である。この事については後述する。なお、「裁判所」の名称は、役所名が「箱館府」と明確に認知された後も用いられ、箱館戦争の感状に「箱館府・裁判所」としたものもみられる。これは、混同して使われたのではなく、箱館府は行政機構全体を、裁判所は行政庁(いわゆる庁舎)を指す言葉としてとらえたものと思われる。
 明治政府の機構については、維新という冠が示すように、まずは幕藩体制の排除にあり、天皇の大権を中心とした新しい政府機構をつくりあげることにあった。そして、その範をヨーロッパの大国に求めた。当時のヨーロッパ・アメリカでは、イギリスのJ・ロック、フランスのJ・ルソー・モンテスキュー、アメリカのフェデラリストらの主張を反映し、近代国家が出現しつつあった。すなわち、国民の意志を代表する議会を中心とする政治機構がつくられ、『政府は立法機関をはじめとして、必然的に司法・行政両機関をも包含する』と広義に考えられた。今日、これらの諸国においては、政府は国家の存続や活動を維持するための能動的な国家権力の作用とみなされている。
 しかしながら、近代に入ってもなお、皇帝の大権が広範な影響力を持つドイツにおいては、行政府の有する権力も強力であり、国法学上、『政府は内閣および、それに付随する行政機構をさす』狭義の解釈がなされてきた。
 日本(明治政府)においても、ドイツと同様であった。すなわち、国家構造上、三権分立が見られなかった時代(いわゆる封建時代)から、表面的には立憲制になった明治憲法制定後にいたっても、政府は、議会や政党との対比において考えられ、しかも天皇の大権を背景にした内閣・行政機関と同一視されてきたのである。言い換えれば、明治政府は、天皇が有する立法・司法・行政の大権を執行する、内閣・行政機関として強力な権限を持つ機構であった。
 尤も、明治政府がこのように強力な権限を有する機構となるのは、相当後のことで維新当時は、朝令暮改のごとく組織自体が揺れ動いていた。特に北海道の場合、前述のように行政機関の名称も、箱館裁判所・箱館府(現地ではこの期間県と認識)さらに、開拓使と僅かの間に呼称が変わり、この間、榎本軍が仮政権を樹立する期間もあり、明治政府・開拓使が実質的に行政機関として機能するのは、箱館(戊辰)戦争終結後のことである。
 
箱館戦争
 明治維新時の最後の内戦、1868年から1869年(明治元~2年5月17日)にかけて旧幕府脱走軍と新政府軍が、箱館を中心に道南地方を戦場とした戦いである。
 郷土尻岸内村は直接この戦いの戦場とはならず、旧幕府脱走軍が村にやって来た等の伝聞があるぐらいであるが、国内戦最後、且つ最大の戦いとして、また、終結後北海道の行政が急速に進んだという意味から、箱館戦争については概括的に述べることにする。
 1868年8月19日深夜、奥羽列藩同盟の再三の要請を受けていた旧幕府海軍副総裁榎本武揚(釜次郎)は、オランダで建造された新鋭艦開陽丸を旗艦とする旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出する。航海中、激しい嵐に合い開陽の舵が故障したり2隻の艦船を見失うなどアクシデントに合い、8月27日ようやく仙台領松島港に入港するが、時、既に遅く、激しく抵抗する奥羽列藩同盟も圧倒的な新政府軍の攻撃に、次第に戦意を失っており、仙台・米沢・南部・庄内・越後諸藩の降伏は時間の問題となっていた。
 脱走軍はここで、奥羽地方を転戦・敗走していた旧幕府軍(陸軍奉行大鳥圭介率いる正規軍、伝習士官隊・伝習歩兵・一聯隊・杜陵隊・砲兵隊・騎兵など約800名、将軍慶喜護衛の彰義隊残党約180名、副長土方歳三に率いられる新撰組若干名)、星恂太郎率いる仙台藩額兵隊250名、会津遊撃隊、衝鋒隊400名、フランス軍事顧問団ブリュネ大尉・カズヌーブ伍長に合流したマルラン・ブッフィエ・フォルタンの下士官3名らを艦隊に加え、総勢約3千人ともいわれる軍団となる。その構成は、元大名・重臣、旗本、御家人、諸藩脱藩者、浪人、百姓、渡世人、町方(火消し・大工・鳶職)など、徳川に殉じる武家身分の者から、戦乱の中で一旗揚げようとしている者など、当時の封建的な身分制度上からは考えられない集団へと膨らみ、艦隊は蝦夷地をめざして松島湾を出港する。
 艦隊の総帥榎本武揚らが蝦夷地をめざした理由は、蝦夷地開拓により旧徳川家臣団を救済することにあった。
 新政府軍に対しての主戦論を押さえ、恭順の意をあらわした将軍慶喜・徳川本家に対する処遇が、薩長らの雄藩重臣の恣意で、僅か70万石駿府へ(しかも、田安家の亀之助を藩主として)封じ込まれたことにより、これまで800万石に養われてきた多くの家臣らは路頭に迷うことになる。榎本は、新政府から蝦夷地の下賜を受け徳川家臣団による新天地の開拓と北辺警備を表明していたのである。しかし、中央集権化をめざす新政府にとって、遠く離れた蝦夷地に、旧徳川の大家臣集団が入殖するなど許し難いことであった。しかも、すでに行動を起こしている榎本艦隊は、反乱軍・賊軍以外のなにものでもなかったのである。
 諸説から推論すれば、榎本はこのことを承知の上で行動を起こしたと思われる。
 軍事力では奥羽列藩同盟の結束から、新政府軍と一定期間は互角に戦える。突出した威力を持つ新鋭艦の旗艦開陽艦を筆頭に、回天艦・弐番回天艦・蟠竜艦・神速丸・高雄丸・千代田艦・長崎艦・長鯨丸(蒸気運送船)・大江(同)・鳳凰丸(帆前運送船)・咸臨丸(帆船軍艦)・美加保丸(同)などの艦船を有する海軍力は、新政府海軍を圧倒している。加えて、戦場が蝦夷地へと拡大すれば、近代戦のための要塞五稜郭がある。箱館港には、ロシア艦から大砲を移し日本一の弁天岬砲台が睨みを利かせている。そして、その守備は、主に奥州諸藩の箱館府軍であり友藩出身者も多く、奪還も容易であろう。榎本軍優勢で内戦が長引けば、アメリカを始め列強諸国も黙ってはいないだろう。日本を拠点として東アジアに自国の勢力を強化しようとしているこれらの国々にとっても、この内戦には無関心ではいられない筈だ。榎本の思惑は、そこにあったと思われる。特に、英国から戦いにより独立を闘(かち)とったアメリカの仲裁・後押しを期待していたとの推論がある。しかし、9月22日の会津藩の鶴ケ城落城を機に勢いを増した官軍に、仙台・米沢・南部・庄内藩等は次々と降伏、あまりにも早すぎた奥羽列藩同盟の脱落、そして、11月、江差港での開陽丸の沈没、最後の頼みとしていた新鋭艦を失うことにより、彼のこの思惑は外れてしまう。
 10月20日、脱走軍は警備が堅固と思われる箱館港を避け、(森町)鷲ノ木海岸に上陸を開始する。榎本が箱館を避けたのは、先にも述べたように艦隊北上の理由が、新政府軍への反抗ではなく「旧徳川家臣救済のための蝦夷地開拓にある」ことを平和裡に伝える手段でもあった。そのために箱館港に入港し戦闘になることを避けたのである。
 しかし、箱館府知事清水谷公考に届けるべく嘆願書を持った先発の本隊、人見勝太郎は、(七飯町)峠下で箱館府派遣の守備軍に阻止され戦闘は開始される。砂原から鹿部、尾札部川汲峠を越えた土方隊も戦闘に加わり、七重、大野などでの戦闘は歴戦の脱走軍に対して、戦闘に不慣れで装備に劣る守備軍は連戦連敗。知事清水谷公考以下は箱館府・五稜郭を捨て、プロシア(ドイツ)船をやとい青森へと逃れる。そして、10月26日、脱走軍は、無抵抗のまま五稜郭に入城し箱館を押さえ、早速、新政府軍の反撃に備えて、赤川の高台に「四稜郭」を、東照宮があり蝦夷日光といわれた神山に「権現台場」を築く。榎本らは、蝦夷地に留まった松前藩を従うよう説得するが応じないため、土方歳三率いる彰義隊・額兵隊・衝鋒隊・陸軍隊ら700名の兵士で、知内・福島の守備軍を撃破し福山城を陥落、松前・江差を制圧する。藩主松前徳広は新城(厚沢部)館城に逃れるが、松岡四郎次郎率いる一聯隊が追撃、激戦の末館城を落とす。松前藩主徳広は、11月19日、熊石、関内村目谷又右衛門の250石の小舟で船出、21日夜半、津軽郡平館砲台下にたどり着き津軽藩士に救助されるが、弘前薬王院にて肺結核のため11月29日急死する。
 11月15日、この戦いの最中(さなか)、榎本軍の運命を暗示するがごとく、最も頼りにしていた旗艦開陽丸−榎本が6年間オランダに留学し艦船について学び造らせた新鋭艦でもある−が、江差港で、この地特有のタバ風・北西の季節風のため沈没する。
 12月15日、蝦夷地を手中に収めた脱走軍は祝砲を鳴らし、士官以上の欧米式入れ札(投票)により首脳人事を決め、五稜郭を本拠に蝦夷仮政権を樹立する。
 主な役職は、総裁 榎本武揚、副総裁 松平太郎、海軍奉行 荒井郁之助、陸軍奉行 大鳥圭介、同並 土方歳三、箱館奉行 永井玄蕃、同並 中島三郎助、松前奉行 人見勝太郎、江差奉行 松岡四郎次郎、同並 小杉雅之進、会計奉行 榎本対馬、同 川村録四郎、そして、注目すべきは開拓奉行 澤太郎左衛門を設け、その拠点を中央部の室蘭においた事である。また、この政権が設置した箱館病院の頭取高松凌雲は、その優れた医療技術と共に、箱館戦争で負傷した兵士を、敵味方の差別なく治療したことで歴史に残る。
 同日、榎本らは、箱館市中と欧米各国の領事に蝦夷政権樹立を告げ、五稜郭で祝賀会を挙行する。招かれた各国領事は蝦夷政権をデ・ファクト政権(交戦権のある独立政権)と認めたので、榎本は新政府へ、自国民の安全のため箱館へ寄港した英仏艦隊の船将を通じて、蝦夷地を徳川の封土(ほうど)(領地)として下賜を嘆願するが、新政府はこれを拒否する。
 1869年(明治2年)1月10日、松前藩兵444名青森に集結。2月30日、薩摩藩黒田清隆、青森口総督府参謀となる。
 3月10日、征討軍を結成する。青森の清水谷公考総督のもとには、松前藩兵1、137名他、箱館府兵・薩摩・水戸・熊本の藩兵、総勢3千900人が集結する。この機に、開戦以来中立の立場を取っていた欧米諸国は、新政府支持を表明する。これにより、旧幕府がアメリカから購入した新鋭艦ストンウオール・ジャクソン号は新政府へ引き渡される。この艦船は、70~100ミリメートルの鉄板に覆われ300ポンドのアームストロング砲(元込式で砲弾が回転する施条砲)を装備した極東最強といわれた軍艦であり、新政府軍は海軍力でも脱走軍を圧倒することになる。
 3月9日、新政府軍はストンウォール号を「甲鉄」と改名、新政府艦隊の旗艦として春日・朝陽・陽春・丁卯らの軍艦と輸送船を従え、箱館奪還をめざし品川沖から出港・進撃を開始する。この情報をキャッチした榎本軍は、開陽丸を失って低下した海軍力挽回のため、3月25日、宮古湾停中の甲鉄を、回天艦長甲賀源吾、斬込隊長土方歳三らにより奪取作戦にでるが、ガトリング砲(多銃身回転式機関砲)の連射に遭い敢え無く失敗に終わる。脱走軍はこの作戦で甲賀源吾以下24名が戦死し軍艦高雄も破損し戦況は一挙に新政府軍へと傾いていく。
 4月9日、新政府軍の第一軍、松前・長州・福山・大野・津軽の藩兵千500余名は乙部に上陸しまず江差を制圧、ここから3隊に分かれ進撃する。厚沢部・鶉を進んだ一隊は中山峠二股口で土方隊と激戦の末撃退。別の一隊は大きく迂回し17日松前を奪還、上ノ国から稲穂峠こえ木古内を攻略してきた隊と合流、29日矢不来(やふらい)(上磯)を攻落し箱館へと進撃する。12日には第2軍、津・久留米・岡山・長州・薩摩の藩兵2千名が上陸、さらに、16日には第3軍2千名も加わり、いよいよ箱館包囲網は狭められてくる。
 5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始する。海戦では、極東最強・アームストロング砲を備えた「甲鉄」を主力に、戦艦、陽春・朝陽・春日・丁卯・延年の6隻、運送船、飛龍・戊辰・豊安・景風の4隻を有する新政府海軍に、開陽丸を失った榎本艦隊の劣勢は明らかであり、残された主力鑑の回天・蟠竜・高雄が果敢に戦うがついに壊滅する。一方、陸上戦では、新政府軍の上陸部隊が箱館山の裏手、寒川に上陸し、山頂を越え三方に分かれ一斉に市中攻撃を仕掛ける奇襲作戦で弁天台場を孤立させる。この作戦は薩摩藩参謀、後の開拓使次官黒田清隆の発案といわれている。これで脱走軍の援軍を弁天台場へ向けさせ、手薄になった四稜郭・権現台場攻略。箱館湾からは甲鉄が五稜郭を狙い艦砲射撃を開始し、脱走軍の敗北は明らかとなる。
 5月12日、新政府軍はこれ以上無益な死傷者を出さないために降伏を勧告することにし、その仲介役を、敵味方の区別なく負傷者を診察した箱館病院頭取高松凌雲を適任と考え、薩摩藩士池田次郎兵衛他を使者として派遣する。凌雲は池田らの熱意に動かされ、榎本にその書状(降伏勧告)を届けるが榎本軍は激論の末降伏を拒否。榎本はその回答と共に、オランダ語の万国海律全書(海上国際法)を「灰にするのは惜しい書籍だ、新政府もこれからすぐ必要になる」と、使者に託する。新政府軍からは返礼として、酒5樽と鮪5尾が贈られたという。
 5月15日、弁天台場、兵糧尽き降伏。16日、新政府軍は五稜郭の前衛陣地千代が岡台場を総攻撃し、降伏を促すが守将中島三郎助はこれを拒否、2人の息子と共に戦死する。そして、翌17日、最後の砦五稜郭も降伏に衆議一決する。
 1869年5月18日、五稜郭開城。これで2年にわたる「戊辰戦争」は終結する。
 
 戊辰戦争は「鳥羽・伏見の戦いに始まり江戸開城」までを第Ⅰ期、「関東から奥羽・越後の戦い」を第Ⅱ期、「箱館戦争」を第Ⅲ期に、時間的経過と戦いの質的、目的的な面から区別することができる。弥生坂の上の新政府海軍の箱館戦争慰霊碑には、明治2年の干支(己巳)に因み「己巳役(きしのえき)」と刻まれている。
 この戦いに参戦した兵士、新政府軍だけで12万名、死傷者の数と共に日清戦争に参戦した日本軍の兵士数と同数だといわれている。(脱走軍の数は統計上把握されていない)戦いが、ガトリング砲などの連発銃や、軍艦・大砲による近代戦であったため、このように死傷者数も多く、とりわけ箱館湾での海戦は日本の海戦史に残る壮絶なものであったと語り継がれている。国内戦争なのにこのような悲惨な戦況になったのは、兵器だけの問題ではなく、戦場がいわゆる内地ではなく、蝦夷地(外地)がゆえに壮絶を極めたのではないかと思われる。日本が近代国家として生まれ変わる歴史的な過程の中で、郷土、道南が激しい戦場になったという事実を長く語り伝えなければならない。
 戦いが終わり、新政府軍の戦没者は招魂社、現在の護国神社に祭られた(境内に墓碑もある)が、脱走軍兵士の死体は市中に放置されたままであった。これを箱館の侠客柳川熊吉は哀れに思い実行寺に葬り、後に函館山の山麓(谷地頭)に改葬する。明治8年大鳥圭介(蝦夷政権当時の陸軍奉行)は刑を終え、ここを訪れ石碑を建てる。これには、中国の故事「義に殉じたる者の血は三年で碧色(あおみどり)に化す」に由来し碧血碑と刻まれている。新政府軍から見れば賊軍である旧幕府脱走軍の兵士も、旧体制である徳川家の義に殉じたとの思いだったのだろう。また、見せしめのためと放置された脱走軍兵士の死体を、自らの咎も覚悟の上で、埋葬した柳川熊吉もその義侠心をうたわれた。
 戦争終結後、脱走軍首脳陣は、東京へ護送され陸軍糾問所へ収監されるが、開拓使次官黒田清隆の尽力により、1872年(明治5年1月)には放免、新政府、特に指揮官の内16名が開拓使に出仕している。その他の者も青森・秋田・弁天砲台で謹慎となったが、翌年(1870年)秋には許されている。なお、榎本武揚については、明治5年1月出所後、開拓使3等出仕(中判官)に任命され、最初の任務として、郷土、尻岸内村の砂鉄・硫黄の調査している。その後1874年(明治7年)には海軍中将となり、特命全権公使としてロシアへ赴任「樺太千島交換条約」の締結。さらに、歴代内閣の逓信・農商務・文部・外務の大臣を歴任、1887年(明治20年)子爵となっている。