函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第3編 行政

第1章 江戸時代の郷土

第5節 村並から『尻岸内村』に

 1854年(嘉永7年)3月書上、幕府が蝦夷地を再直轄し箱館奉行を再度設置する3か月前の日付文書(もんじょ)(市立函館図書館所蔵)がある。
 これは、『嘉永七甲寅三月 田中正右衛門 六ケ場所 神社庵室并御備品家数人別蝦夷小屋数人別出産物同値段川々山林温泉場澗り山道越御小休所網舩牛馬有高調子 書上』、という長い標題(タイトル)の文書であり、通称『箱館六ケ場所調べ・田中正右衛門文書」と呼ばれている。タイトルに報告内容が全て書かれているように、これは、六カ場所の村々の総合的な実態調査であり、当時の村勢状況が手にとるように分かる。しかも報告者が当該村の村役人、支村の村役人ということからも正確なものと見ていいであろう。
 この調査は松前藩の命によって行われたもので、調査の目的は、標題にもあるように六ケ場所村々の実態の詳細な掌握と、もう一つ、不穏な異国船動向に対処するための軍事的な目的を持ったものではないかとも推察される。
 以下、南茅部町在郷土史家 荒木恵吾氏解読文より『尻岸内』の全文を抜粋し記載する。
 
乍恐以書付奉り申上候(恐れながら書き付けを以て申し上げ奉り候)
 尻岸内持 日浦
 鎌歌より当所迄 行程二四丁三〇間(約二、六七〇メートル)
嘉永元申年 御備(一八四三年に備蓄したもの)
一、幕串(まくぐし)五〇本(幕を張るために立てる細い柱)
天保六未年 御備(一八四三年に備蓄したもの)
一、松明(たいまつ)一五〇本(非常用の照明として)
天保六未年 御備(一八四三年に備蓄したもの)
一、草鞋(わらじ)一五〇足(非常用の履物として)
一、弁天小社 一ケ所 但、亀田村神主 藤原大膳持
昨丑年御改(嘉永六年の調査によるもの)
一、家数 九軒 人別 三五人 内、男二〇人 女一五人
一、昆布、鰯、布苔、産物ニ御座候
一、元揃昆布 二〇〇〇把 前同断(前と同じ)但、一把ニ付直段二三〇文
一、長切昆布 前同断(前と同じ二千把) 但、一把ニ付直段二五〇文
一、鰯粕 近年漁事無御座候(近年鰯漁無く粕の生産はありません)
一、布苔 一〇〇〆匁(貫目)昨丑年取上高 但、直段一〆匁ニ付き二一〇文
一、馬数 三疋 内、牡馬一疋 牝馬二疋
 但、当時用立候馬二疋、病馬老馬二才等に而用立不馬一疋(用立てできる馬は二疋、他の一疋は病気老馬のため用立てできない)
一、船数 五艘 内、持符(モチップ)四艘 磯船一艘
一、小川 但、川幅式余 歩行渡ニ御座候(歩いて渡ることができます)
一、野菜物之外 畑作無御座候(野菜物のほかは産物はありません)
一、山道越 峠上詰鎌歌日浦境(峠の頂上が鎌歌と日浦の境)
 但、峠境より下り日浦入口迄七丁三〇間(約八一七メートル)
一、山道越峠 但、峠登り詰迄六丁 夫より下り峠夕迄口拾壱丁三〇間(約二、二八五メートル)
右通御座候間乍恐此段奉申上候  以上
   寅二月        尻岸内持  日浦
                    小頭(東)助五郎
 
乍恐以書付奉り申上候
 尻岸内(本村)
 日浦より当所迄 行程二一丁(約二、二八九メートル)
嘉永元申年 御備
一、幕串五〇本
天保六未年 御備
一、松明一五〇本
天保六未年 御備
一、草鞋一五〇足
一、八幡社  一ケ所
一、蛭児小社 一ケ所
一、稲荷小社 一ケ所 但、三ケ所共 亀田村神主 藤原大膳持
昨丑年御改
一、家数 二〇軒 人別 一一四人 内、男五八人 女五六人
前同断(昨丑年御改)
一、蝦夷アイヌ)小家 四軒 人別 一三人 内、男五人 女八人
一、鰯、鰤(ぶり)、布苔 産物ニ御座候
一、駄昆布 三九駄 去丑年取揚高 但、一駄ニ付直段 八七文
一、元揃昆布 四、九〇〇貫目 前同断 但、一把ニ付直段 三〇〇文
一、長昆布 八、〇〇〇〆匁(貫目)前同断 但、金一両ニ付直段 九〇〆匁
一、鰯粕 二、八〇〇〆匁(貫目)前同断 但、金一両ニ付直段三八〆匁
一、鰤 近年漁事無御座候
一、布苔 二、〇〇五貫目 去丑年取揚高 但、一〆目ニ付直段二二〇文
 *二、〇〇五貫目は量として多すぎる、支村の生産高から推量し二五〇貫目の誤記と思われる。
一、山林 但、雑木皆具 家木材出仕候
一、馬数 一五疋 内、牡馬一疋 牝馬一四疋
 但、当時用立候馬一〇疋、病馬老馬二才等に而用立不馬五疋
一、船数 四三艘
 内、大中遣船一艘 図合船四艘 筒船四艘 持符二二艘 磯船一五艘
一、鰯引網 大小三投
一、鯡刺網 五〇放
一、字イキシナイ川 但、川幅九五間(一七一メートル)船渡ニ御座候
一、村中川 但、川幅三間(五・四メートル)仮橋御座候
一、野菜物之外 畑作無御座候
一、山道越峠 但、峠登り口より下り日浦迄 一七丁三〇間(約一、九〇七メートル)
右通御座候間乍恐此段奉申上候  以上
   寅二月            尻岸内
*前記「町村制度考 長尾元長編」では、天保8年、頭取を名主に改めたとあるが、これには頭取と記載されてている、代筆による誤記と思われる。
                  *頭取(野呂)利喜松
                   小頭(野呂)福太郎
                   百姓代(野呂)平四郎
 
乍恐以書付奉り申上候
 尻岸内持 古武井
 尻岸内より当所迄 行程一里一一丁四五間(約五、八二〇メートル)
嘉永元申年 御備
一、幕串二五本
天保六未年 御備
一、松明一五〇本
天保六未年 御備
一、草鞋一五〇足一、八大龍神社 一ケ所  但、亀田村神主 藤原大膳持昨丑年御改
一、家数 一二軒 人別 四八人 内、男二九人 女一九人
一、鰯、鰤(ぶり) 産物ニ御座候
一、元揃昆布 四,九〇〇把 去丑年取揚高 但、一把ニ付直段三〇〇文
一、鰯粕 近年漁事無御座候
一、鰤 前同断
一、鱈 八〇束 去丑年取揚高 但、一束ニ付直段 八〇〇文
一、布苔 三五〇貫匁 去丑年取揚高 但、一〆匁ニ付直段 二二〇文
一、馬数 一八疋 内、牡馬二疋 牝馬一六疋
 但、当時用立候馬九疋、病馬老馬二才等に而用立不馬九疋
一、船数 二八艘 内、筒船一艘 持符六艘 磯船二一艘
一、鰯引網 一投
一、鱈釣這縄 六〇放
一、鯡刺網 二〇放
一、山林 但、雑木皆具 家木材出仕候
一、古武井川 但、川幅凡五間余(約九メートル)歩行渡ニ御座候
一、野菜物之外 畑作無御座候
右通御座候間乍恐此段奉申上候  以上
   寅二月       尻岸内持  古武井
                    小頭(増輪)半兵衛
 
乍恐以書付奉り申上候
 尻岸内持 根田内
 古武井より当所迄 行程一六丁(約一、七四四メートル)
嘉永元申年 御備
一、幕串二五本
天保六未年 御備
一、松明一五〇本
天保六未年 御備
一、草鞋一五〇足
一、蛭児神社 一ケ所 但、亀田村神主 藤原大膳持
一、稲荷神社 一ケ所 前同断
一、浄土宗 地蔵庵 一ケ所 但、箱館称名寺
昨丑年御改
一、家数 四〇軒 人別 二四七人 内、男一四八人 女九九人
一、鰯、鰤 布苔 産物ニ御座候
一、駄昆布 七二駄 去丑年取揚高 但、一駄ニ付直段 八八文
一、元揃昆布 三、九〇〇把 前同断 但、一把ニ付直段 三〇〇文
一、長昆布 四〇、〇〇〇〆匁(貫目)前同断 但、金一両ニ付直段九〇〆匁
一、鰯粕 四、〇〇〇〆匁(貫目)前同断 但、金一両ニ付直段三九〆匁
一、鱈 三五〇束 去丑年取揚高 但、一束ニ付直段 八〇〇文
一、硫黄 当時休山
一、布苔 三五〇貫匁 去丑年取揚高 但、一〆匁ニ付直段 二二〇文
一、馬数 五〇疋 内、牡馬五疋 牝馬四五疋
 但、当時用立候馬三一疋、病馬老馬二才等に而用立不馬一九疋
一、牛数 五疋 内、牡牛四疋 牝牛一疋
 但、当時用立候牛三疋、病牛老牛二才等に而用立不牛二疋一、船数四三艘 内、弁財船二艘 筒船三艘 持符二〇艘 磯船一八艘
一、鰯引網 二投
一、鱈釣這縄 一五〇放
一、鯡刺網 二〇〇放
一、村中川 但、川幅一間余(約一・八メートル)仮板橋ニ御座候
一、ヱサン山道越
 但、登詰温泉川之有眼病に宜、根田内椴法華境、根田内凡二〇丁余(約二、一八〇メートル)
 右下海岸より二〇間程引上り山岸ニ温泉場有之冷病ニ宜草囲温泉小屋一軒 入浴之者居小家之無、根田内より海岸通り凡九六丁程御座候(約一〇・五キロメートル)
一、野菜物之外 畑作無御座候
右通御座候間乍恐此段奉申上候  以上
   寅二月       尻岸内持  根田内
                    小頭(福澤)乙右衛門
 
 この調査は軍事も想定しての実施と推論したが、調査内容の中に、「幕串(まくぐし)・松明(たいまつ)・草鞋(わらじ)」の保管数量の確認をしている。これは戦陣を設置するための備品である。つぎに「牛馬・船(船種)」は、戦闘になった場合に、藩士・物資輸送に使える(徴用)実数を確認している。さらに「峠道・河川の状況、橋など・道程(距離)」戦略上の情報として重要である。また「人別調査」は現地徴用できる、労働力あるいは戦闘補助員数の掌握。村役人・役職の掌握は命令系統の確認に欠くことができない。これらから判断して、異国船との不慮の事態(軍事)に備えての調査と考えてよい。
 このことからも、頻繁に訪れる異国船・乗組員の不穏な動きに対して、松前藩が相当緊迫した状況にあり、六ケ場所村々にも相当の負担が強いられたことが窺われる。
 一方、この調査は項目が多岐に亘り、また、統計的にも詳細であり当時の郷土の村としての成熟度が読み取れる貴重な資料である。そのいくつかについてまとめてみる。
 
<戸数と人口>
尻岸内全村 八五戸・四五七人(人口の割合)内、男二六〇人・女一九七人
尻岸内本村 二四戸・一二七人(二七・八%)内、男 六三人・女 六四人
 内アイヌ (四戸)(一三人)(二・八%)内、男(五人)・女 (八人)
支村日浦   九戸・三五人  (七・七%)内、男 二〇人・女 一五人
支村古武井 一二戸・四八人 (一〇・五%)内、男 二九人・女 一九人
支村根田内 四〇戸・二四七人(五四・〇%)内、男一四八人・女 九九人
 
 戸数・人口について先に記した「蝦夷地御用見合書物類」(1812年・文化9年)と比較してみる。和人の全戸数52戸・人口218人に対して、42年後の「六ケ場所調」では全戸数81戸・人口444人で、戸数約1.6倍、人口約2倍の増加率である。一方、アイヌについて見ると1812年には全戸数が11戸・人口37人であり、全体に占める割合も17%余り、15%弱であったが、42年後の調査では全戸数4戸・人口13人ともに約3分の1に減少し、全戸数・人口に対する比率も5%、3%に満たない数となっている。限られた資料からではあるが、和人の戸数・人口は確実に増加し、逆にアイヌのそれは大幅に減少し、和人とアイヌの混住する「村並」から急速に「日本人村」化しつつあるようすが窺える。
 
<村役人>   「頭取」      「小頭」      「百姓代」
尻岸内本村  (野呂)利喜松  (野呂)福太郎   (野呂)平四郎
支村日浦            (東)助五郎
支村古武井           (増輪)半兵衛
支村根田内           (福澤)乙右衛門
 
 村役人については、尻岸内本村に頭取・小頭・百姓代の3名、各支村に小頭各1名ずつ任命されており、別資料「松浦武四郎蝦夷日誌」の制札(幕府の告知板)の設置などからも、幕政が行き届いていたものと推察される。ここでは村長(むらおさ)の名称が頭取と記載されているが、尻岸内は当時「名主」を呼称してとあり、代筆か写しによる誤記と思われる。
 なお、名字を( )内に記したが文書には姓はなく名のみである。この時代は襲名が一般的に行われていたので、名字が制度化した明治の戸籍を遡り確認した。
 
<神社と寺院> 「神社」               「寺院」
尻岸内本村   八幡社・蛭児(えびす)小社・稲荷小社 なし
支村日浦    弁天小社               なし
支村古武井   八大龍神社              なし
支村根田内   蛭児(えびす)小社・稲荷小社     浄土宗地蔵庵
 
 これらの神社・寺院の御神体・宗派について概略触れておく。
八幡社、応仁天皇を主座とする弓矢の神、いわゆる氏神様。蛭児(えびす)、蛭子命(ひるこのみこと)を祀る、漁業・商売繁昌の神、恵比寿様に同じ。
・稲荷、五穀を司る倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祀る、この社に見られる狐は神の使いといわれている。
・弁天、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る、厳島神社の通称。
・八大龍神社、釈尊が法華経を説いた時聴衆に加わった8種の龍(竜王)、いわゆる神仏混淆の海の神。
 これらの社は本村・各支村の産土神(うぶすながみ)(土地の守神)として村人の精神的な拠りどころであり、その存在は村の強いまとまりを象徴している。いずれも亀田村神主、藤原大膳持とあり由緒も明らかである。
 浄土宗地蔵庵については箱館称名寺末とある。浄土宗の芝増上寺は将軍家の菩提寺であり、同宗派の箱館称名寺は将軍家の「葵の紋」が許されている由緒ある寺院である。なお、この根田内地蔵庵は高田屋嘉兵衛の寄進といわれている。
 
<産物・生産高>        尻岸内全村
昆布(二九二・一トン)    駄昆布三一二貫目・元揃昆布二二、九〇〇貫目・長切昆布五六、〇〇〇貫目
鰯(二五・五トン)      鰯〆粕六、八〇〇貫目(尻岸内・根田内)
鰤(ぶり)          近年漁無し
鱈(一八・五トン)      新鱈四三〇束(古武井・根田内)
布苔(ふのり)(三・九トン) 布苔一、〇五〇貫目(全村)
 
 産物、とりわけ主要水産物の昆布の生産高は相当な量である。この時代、昆布4千貫目が米100石に換算されていたので、全村の長切昆布56,000貫目・元揃昆布22,900貫目の生産高を、米に換算すれば約2千石となる。当時の米の1人当たり1年間の消費量は1石といわれていたので、全村民457人の4倍以上の人数を養える量である。もっとも当時の経済は請負人が握っていたので、漁民の収入は額面の5割にも満たず、暮らし向きは貧しかったものの、村全体の生産性は高く、幕府の財政を潤していたことは確かである。
 
<船の持数>
 「種別」            尻岸内全村  日浦  尻岸内 古武井  根田内
弁財船(べんざいせん)(大型商船)   二艘   …    …   …  (二)
大中遣船(なかやりふね)(大型運搬船) 一〃   …  (一)   …    …
図合船(ずあいぶね)(中型運搬船)   一〃   …  (一)   …    …
筒船(つつぶね)(中型運搬・漁船)   八〃   …  (四)  (一) (三)
磯船(いそぶね)(漁船・和船)    五五〃 (一) (一五) (二一)(一八)
持符船(もちっぷせん)(漁船・蝦夷船)五二〃 (四) (二二)  (六)(二〇)
   合計             一一九艘 (五) (四三) (二八)(四三)
 
 持船については、漁船の磯船・持符船(もちっぷせん)が107隻、戸数平均1・2隻余り、全戸数85戸に行き渡りなお余る数である。また、網漁に使われる筒船(つつぶね)も8隻を有する。大中遣船(なかやりふね)については運搬・網漁に使われたと思われる。弁財船(べんざいせん)は北前船とも呼ばれた大型商船であり700石積程度はあったのではないか、いわゆる回船問屋が存在し漁獲物などの運搬を専業にし、箱館湊との往来も頻繁に行われていたのではないか。
 
<網の保有数>
 「種別」   尻岸内全村  日浦  尻岸内  古武井  根田内
 鰯引網       六投   …  (三)  (二)   (二)
 鰊刺網     二七〇放   … (五〇) (二〇) (二〇〇)
 鱈這縄     二一〇枚   …    … (六〇) (一五〇)
 
 網漁は、その構造・組織・規模(資本)あるいは、仕掛ける場所の設定などから見て、近代的な漁法といえる。この網漁も日浦を除いて相当数行われており、種別・生産量・持船などと合わせて、漁業が組織的にも規模的にも相当大掛かりとなり、発展してきたことが窺える。
 以上、嘉永7甲寅3月(1854年)の『箱館六ケ場所調べ』の調査項目から、村落の成立条件としての、人口・村組織・産業等について考察したが、このことからも村並認可以降、わが郷土は順調に発展してきているといえる。