函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第3編 行政

第1章 江戸時代の郷土

第5節 村並から『尻岸内村』に

 幕府は、蝦夷地の再直轄後ただちに、1855年(安政2年)3月、仙台・秋田・南部・津軽・松前の各藩に蝦夷地の警備を命じた。この内、箱館六ケ場所一帯の警備に当たったのは、南部藩(藩主南部利剛)である。南部藩は津軽藩とともに、前期直轄時代にも蝦夷地全土の警備を命じられてはきたが、今回は、箱館箱館六ケ場所の警備を主に、恵山岬から東蝦夷地幌別(現登別市)までの海岸一帯の地が警備範囲となり、さらには、不穏な事態が生じた場合には、蝦夷地全域の応援も兼ねるという過重な任務であった。
 1855年(安政2年)南部藩は幕府より警備の命を受けると4月、表目付上山半右衛門・御勘定奉行新渡戸十次郎らに藩の持場である、箱館・恵山岬から東蝦夷地幌別までの海岸線の実地見分(調査)を命じる。上山・新渡戸らは即、5月より調査を開始7月には調査を終え復命する。南部藩は、その調査報告に基づき持場の警備強化として箱館に元陣屋、室蘭(ヱトモ字ホロヘケレウタ)に出張陣屋砂原長万部(オシャマンペ)に屯所を設置する。また、6月には、藩士、長澤盛至に持場の検分(測量)を命じる。長澤は箱館よりフシコヘツ(登別・室蘭の境界)までのおよそ62里余(約240キロメートル)を、1日6里、通常の2~3倍の早さで測量し、同年10月には、距離と地形地名入りの絵図『東蝦夷地海岸図台帳』を作成報告する。
 これらの対策からも、開国・箱館開港に伴い、蝦夷地の警備を課せられた藩の動揺・警備への腐心(外国船からの攻撃は…防御するための対策は…)が推察される。
 なお、箱館・室蘭の陣屋砂原長万部の屯所の陣容については、砂原町史(荒木恵吾編集長)に詳細に記述されているので、それより転記掲載する。
 
箱館表元陣屋詰>
鉄砲足軽二組六〇人・小頭二人、弓足軽一組一六人・小頭二人、昇足軽六人、御手弓頭一騎、先手鉄砲頭一騎、目付兼先手昇奉行一騎、小奉行二人、火業師八人、火業御手傳一六人、鉄砲武者二〇人、歩武者二〇人、螺役一人、太鼓役一人、使番二騎、改役一人、締役二人、扱役二人、村夫五八人、
右え(その他)諸職人従僕共、都合三〇〇人
 
<ヱトモ字ホロヘケレウタ出張陣屋詰>
鉄砲足軽一組・小頭二人、弓足軽一組・小頭二人、昇足軽九人、先手弓頭一騎、目付兼先手昇奉行一騎、締役兼小奉行三人、火業師一〇人、火業御手傳二〇人、鉄砲武者二〇人、鐵鑓武者一〇人、螺役一人、太鼓役二人、使番一騎、使番兼鉄砲方一騎、改役一人、締役扱役兼二人医師一人、村夫一八人、
右え(その他)諸職人従僕共、都合二〇〇人、内所々勤番人数組立ケ所分
 
砂原(屯所)詰>
使番一騎、小奉行一人、火業師三人、火業御手傳六人、鐵鑓武者五人、螺役一人、太鼓役一人、締役一人、村夫五人、
右え(その他)従僕共五〇人、
 
<オシャマンペ(屯所)詰>
締役扱役兼一人、火業師一人、火業御手傳二人、鉄砲武者四人、足軽四人、村夫二人
右え(その他)従僕共二〇人、
 
<字ヱトモ岬ホロシレトル岬詰>
火業師二人、火業御手傳四人、足軽二人、村夫二人
右え(その他)従僕共六人宛、
 
 これら、箱館、室蘭、砂原長万部屯所の陣屋建築については、南部藩盛岡城下の、谷崎善六・佐々木善太郎(御普請懸)、晴山多助(大工棟梁)・村田宗吉(大工小頭)らがそれぞれの役職を命ぜられ工事を行っている。
 この内、砂原屯所の陣屋は一八五五年(安政二年)四月着工、翌年三月に完成している。その規模は、東西三七間(約六六・六メートル)南北三三間(約五九・四メートル)、面積一、二二一坪(約四、〇〇〇平方メートル)付帯工事として、周囲に土手を築き掘割巡らし、守衛兵三〇名の駐屯舎(仮舎)を備えるという大構造物である。敷地の総面積は三千坪(約九、九〇〇平方メートル)を有する。
 なお、この跡地、東蝦夷地南部陣屋跡「砂原陣屋跡」は、一九七四年(昭和四九年)八月二二日付で国指定史跡になっている。
 東蝦夷地南部藩砂原陣屋見取図 砂原町史より(盛岡市立中央公民館所蔵)