函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第3編 行政

第1章 江戸時代の郷土

第1節 郷土の起源

 郷土の起源・集落についての、公式な記録は、大正7年(1918年)函館支庁管内町村史(1)17章 尻岸内村 郷土の沿革である。
 それによると、「本村の開創は遠く享保5年庚子6月、西村善次郎なるもの陸奥国南部地方(佐井村)より来住したるを嚆矢(こうし)(事の初め)とし、次に元文3年、野呂平四郎等(中津軽郡黒石村)来住、宝暦年間漁場を開くもの5戸。享和元年9月漁場を劃定(かくてい)せらる。文化年間に至って75戸の来住者を見、爾来(じらい)、来住者漸次増加し天保年間より慶応3年におよび、戸数優に182戸を算しその後戸数の増加を来たしつつ今日に至れり」とある。まず、この沿革の事実認知である。記述されていることは、当時の古老らからの聞きとりや、それ以前、多分、郷土が村並(後述)以降村役人がおかれた当時の聞取り・書付けなど、根拠となるものを基に書かれたものと思われる。郷土に名主事務所が置かれたのは天保6年(1835年)である。聞き取りは、たかだか100年から150年程度遡(さかのぼ)った、しかも、来住者等にとってみれば相当印象深い出来事であり、まず、ここに記述されている事柄は、ほぼ歴史的事実と認識してよいのではないか。
 次に、記述されている年代・戸数・漁業のようすについて、他の資料もあわせて、沿革の考察を試みる。
 
 ①1720年(享保5年)、西村善次郎、陸奥国南部地方より初めて来住とあるが、善次郎は唐突に来住したのではなく、何年もの間、入稼を繰り返していたと思われる。郷土が当時「ひゝら・尻岸ない・ゑきしない・こふい・ねたない」と呼ばれ、アイヌ集落のあるところ、船入澗がある漁場として和人に知られていたことは津軽一統志などの資料(後述)からも明らかであり、善次郎ら相当数の南部の人々は、昆布漁の季節になれば津軽海峡を渡り「郷土」にやって来て、アイヌの人々に交わり昆布漁等に精を出したと思われる。
 また、このなかには、故郷には帰らずアイヌ女性と婚姻するなど、土着同然の人もあったろう。恵山山頂に祭られている「恵山大権現」(金比羅大権現・秋葉大権現・将軍地蔵尊の三体の合祀)も1660年との記録があり、これは、津軽海峡を航海する船乗達や、入稼・土着の和人の手によるものと考えてよい。このことからも、西村善次郎定住以前、1600年代後半から1700年代初めにかけて、相当数の入稼・土着、あるいは漂流してきた人が、先住のアイヌの人々に交わり、漁法などを学び漁業を営み、昆布など海産物を買い付けに来る船乗りと商取引し、原始的な利益社会をつくっていたものと推定される。
 
 ②1738年(元文3年)、野呂平四郎等来住。これは、西村善次郎来住後18年である。
 記述中、平四郎等とあるのは相当数の人々、おそらくは一家一族での移住と考えられる。平四郎も善次郎同様、何度も入稼を繰り返したと思われる。そして、定住を決めたのは夏場の昆布漁だけではなく漁場(網漁)を開き、1年を通しての漁が期待できる見通しを持ったからと推察される。すなわち、1751~63年(宝暦年間)漁場を開くもの5戸、とあり、おそらく、これは野呂一族による漁場だったと思われる。この時代、南部・津軽の入稼者たちは、「尻岸ない」の漁場や「ゑきしない(女那川)」「ねたない(恵山)」などの漁や暮らしぶりを見て、一族を引き連れ定住を決めていったものと思われる。すなわち、郷土の漁村の共同社会の基盤がこの時期形成されたものと推察される。
 
 ③1801年(享和元年)、漁場を画定とあるのは、幕府・蝦夷奉行箱館奉行)の意向によるものとも考えられる。1799年(寛政11年)幕府は、松前氏の領土として1590年(天正18年)以来認められていた蝦夷地の内、知内川以東知床岬までの東蝦夷地を幕府直轄地とした。そして、これまで松前藩が藩主および家臣の給地(商場・漁場)として、和人の定住を認めなかった「箱館六ケ場所(小安・戸井・尻岸内尾札部茅部野田追の漁業交易区域)」を、1801年(享和元年)日本人の定住者が多いことを理由に、西蝦夷地熊石村から東の小安村の日本人村に準じて『村並』と決めたことによるものである。つまり、この地から上がっていた松前藩の莫大な漁業利益が、直轄・村並化により幕府の収入になった。
 
 ④1804~17年(文化年間)来住する者75戸とあり定住者が大幅に増加したことが記述されている。これは、村並化により正式に和人の居住が認められたこと、松前藩時代の「場所請負制度」(後述)が廃止され村人に漁業権が与えられたことなどによるものと、村の自治が認められたことなどによるものであると推察される。
 なお、『六ケ場所村々家数人別取調・1811年(文化8年)12月』によれば、尻岸内場所の戸数50戸、人口・男116人・女98人・総計214人を数えている。
 
 ⑤1830~67年(天保年間から慶応3年)、戸数182戸の戸数(人口)の急増については、上記の理由のほか、いわゆる天保の飢饉、東北地方を数度にわたって襲った冷害によるものと推定される。とりわけ南部地方はもともと気候が不順で農地にも恵まれず、多くの人々が故郷を捨て対岸の蝦夷地を目指し脱出してきたものと思われる。この時期、特に根田内の人口が急増し、本村「尻岸内」を凌いでいる。
 また、同沿革によれば、1837年(天保8年)、尻岸内名主事務所が開設、頭取・小頭・百姓代などの村役人を置いての村政が開始されとあり、村落としての形態も整ってきたと推測される。『松前嶋郷帳・1834年(天保5年)』によれば、尻岸内場所、右持場日浦・昆布井(こぶい)・根田内と記されている。
 
 ⑥1858年(安政5年)、幕府の蝦夷地後期直轄(1854年・安政元年)により尻岸内箱館六ケ場所「村並」と共に『尻岸内村』となる。
 以上、郷土の起源・集落・村落形成について、大正7年(1918年)函館支庁管内町村史17章の尻岸内村郷土の沿革等を元に、江戸時代の流れを大雑把に推察したが、これを次の4つの時期にまとめ、以降少し詳しく述べていきたい。
 
 ①和人の入稼~定住時期
 ○1720年(享保5年)・西村善次郎来住
 ②漁業請負場所開設と和人集落形成の時期
 ○1739年頃(元文4年)・六箇場所の1つ尻岸内
 ○1751年~(宝暦年間)・漁場を開くもの5戸
 ③幕府直轄『村並』から名主事務所開設の時期
 ○1801年(享和元年)・尻岸内村並
 ○1837年(天保8年)・尻岸内名主事務所
 ④後期幕領『村』の時期
 ○1858年(安政5年)・尻岸内、村並から村