函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第1章 北海道の先史時代

第4節 擦文文化

概要  古代国家体制の機能が発揮されはじまった7世紀後半には、律令制府の関心は北方経営にむけられ、古墳時代末から奈良時代にかけた文化の北上は勢いを増し、石狩平野まで本州の文化が及ぶこととなった。異文化との接触・交流を繰り返すなかで、7世紀後半頃には東北地方北部の土師器文化−農耕文化−の影響のもとに、擦文文化とよばれるそれまでとは異なった文化が成立した。
 土器からは数千年間にわたって施文されてきた「縄文」が消え、土師器の影響を強く受けた刷毛目のような整形痕がつけられた擦文土器が使用されはじめ(第56図)、住居の構造も円形もしくは楕円形の竪穴住居から、4本柱を基本とした造りつけのカマドと煙道をもった方形の竪穴住居(第57図)へと変わる。刀子や斧などの鉄製品が使用されるようになって石器の使用は限られ、機織りの技術や鍛冶の技術も導入されたほか、雑穀の種子や鍬先や鎌などの鉄製農機具が出土して畑作が行われていたことが明らかになるなど、発掘で得られた文化内容は、続縄文時代とは大きく変革したものとなっている。その初期には道央の石狩低地帯に東北北部と同様な小規模な墳丘をもった、「北海道式古墳」とよばれる墳墓も造成されるなど東北地方との同一性がみられる。
 10世紀頃には道東・北の海岸線に分布していたオホーツク文化と接触・融合している。
 その終末は、煮沸具としての擦文土器をつくらず内耳鉄鍋を使用し始めた12世紀末もしくは13世紀初頭で、鎌倉幕府による藤原政権の崩壊、日本海を経由した流通経済の発達、気候の寒冷化などの要因がその終末を促したと考えられている。

第56図 擦文土器(1、前期:函館市鶴野2遺跡、2~3:後期、2、厚沢部町厚沢部河口遺跡、3、松前町札前遺跡)
中田裕香ほか「擦文土器集成」シンポジウム『海峡と北の考古学』資料集Ⅱ、日本考古学会 1999年度釧路大会実行委員会、1999


第57図 擦文文化の住居復原図
峰山巌・宮塚義人編『小平の文化財オピラウシュペツ遺跡』小平町教育委員会、1981

 
金属器  続縄文時代後半期から石器の器種が減少しはじめ、自らが使用する利器や道具を自己生産する自己完結経済の崩壊の兆しが見え始めるが、擦文時代になると石器の器種の崩れや量の減少はさらに明確になり、砥石と若干の剥片石器をのぞいて石器はほとんどみられなくなる。石器に代わる道具として金属器(第58図)と、金属器で加工された木器、骨角器が使用されるようになった。
 金属器の種類には、鉄製刀子、武器としての蕨手刀・直刀・毛抜き形太刀などの刀類、鉄鏃、農工具の斧、鎌、鍬先、漁具の魚突鈎、環、鑷子、針、釘などがある。量的には刀子が最も多く、蕨手刀を含む刀類の数がそれに続く。道央を中心とした擦文文化初期の墓からは一時的に数多くの鉄製品が出土するが、以後は主に刀子のような道具をつくりだすための道具の利用にとどまっている。発掘された住居跡などにくらべて金属器の普及量は少なく、集団による共同所有・利用という形で金属器の使用が行われていたと考えられる。
 雑穀農耕が行われ鍬先、鎌、斧などの農機具も出土しているが、数は少なく生産性を向上させ、富の蓄積・階層文化をおし進めるほどの集約的な農耕の展開には結びつかなかったようである。また、10数カ所の遺跡からフイゴの羽口が出土しているが、「小鍛冶」で鉄器の再加工が行われていた程度と考えられる。

第58図 柏木川遺跡出土の鉄器(1、鍬先、2、鎌、3、刀子)
高橋正勝編『柏木川』1971

 
機織  土製や鉄製の紡錘車の出土は機織が存在していたことを示すものである。紡錘車は中心の穴に棒をさしこみ、繊維をつなぎ合わせた糸を結んで空中で回転させ撚りをかけるはずみ車の役割をするもので、機織りには紡錘車で紡いだ多量の均一な糸が不可欠で、擦文文化に紡錘車が一般化することは同時に機織り技術が普及し、アサなどの細い繊維がとれる植物栽培も普及していたことを示す。
 アサの種子も11遺跡から出土し、道内各地で栽培されていたことがわかる。出土例はまだ少ないが、筬と考えられる炭化した木製品や筬の一部と箆状の炭化木製品が出土し、布や紐などの繊維製品が多くの遺跡から出土している。なかでも、豊富遺跡からは織物、編紐、蓆、漁網など14種の炭化した植物性繊維が発見されており、機織りや蓆編み、漁網などが行われていたことが明らかになっている(宇田川、1977)。
 
生業  擦文時代の遺跡も河川沿いに集中する傾向を見せるほか、札幌市サクシュコトニ川遺跡(北海道大学、1986)や旭川市錦町5遺跡(旭川市教育委員会、1985)では、サケ科の魚類を大量捕獲する目的で河川に構築された「ヤナ状遺構」が発掘され、そこでサケ漁が行われていたことが知られている。
 最近の発掘調査では、住居跡内や屋外炉などの土壌を大量に採取し十分に乾燥させた後、水を使用して土壌中にふくまれている炭化物の浮遊選別作業が行われている。浮遊物中からは野生種の堅果や果実の種子が出土して植物採集が行われていたことはもちろん、炭化したアワ、キビ、ヒエ、モロコシ、オオムギ、コムギ、ソバ、小豆、緑豆、ベニバナ、シソ属、アサ、ウリ科、ホオズキ属などの栽培種子が出土して、擦文時代には雑穀を栽培する農耕が行われていたことが明らかになっている(山田、1998)。一方、沈殿物中からはサケ科、ニシン科、コイ科などの魚骨、エゾシカ、ヒグマ、イヌなどの骨や海獣骨が出土し、サケ漁や海上での漁労・狩猟、陸獣の狩猟が行われていたことも明らかになっている。漁労・狩猟によった生産物は食料として利用されただけではなく、交易品として鉄器、須恵器、米、塩などの本州産品を入手した対価としても使用されていたようである。交易民としての性格も併せ持っていたのである。
 12世紀末もしくは13世紀以後は、漁労・狩猟によった生産物を対価とし、自らが必要とする鉄製の道具や煮沸具、その他多くの生活用具を本州産品に依存して交易を行った、アイヌ文化の時代となる。
 津軽海峡に面した函館市や戸井町の小沢沿いに、擦文時代初期の遺跡が点在するが、戸井町の汐首岬から恵山岬の間にはこの時期の遺跡がみられない。