函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第1編 自然

第3章 自然災害

第3節 火山災害

 恵山火山では、19世紀中葉には噴火、硫黄自然発火、火山泥流等の異変が多発し、泥流による死傷者も記録されている。
 
・1841年(天保12年)  恵山爆発して焼石四方に飛ばし多くの負傷者を出した(尻岸内町史年表、1970)。
 恵山爆発大噴火すると云い伝えられるも確証なし(椴法華村史年表、1989)
 
・1845年(弘化2年6月11日)  弘化二年己巳六月十一日夜、恵山西手に当り火煙上り半天に輝きさして山動地響きもなかりしに火光焔々として、近村シマトマリ、椴法華、根田内村三ケ村大々騒動して誠に山上に湯治場有之候所処、此頃七、八人も上り居る処、温泉小屋より五丁斗相隔り卯(東)の方、夜八時頃も出し、右湯治人も悉く遁去り村役人為相知り処残なく志らせ候。
 則私共下役人二人連れだち急ぎ出張仕り処、同年三日九ツ頃到着致し、湯治場をたよりに人足二百人斗りにて湯水を汲み消防につとめ候。
 然れども又々東の方、山の方に燃出しはじめ手段も無之候処、十五日朝より雲行き烈く東風吹来り雨も降り候処、追々大雨に相成り九ツ刻には車軸を流す斗りに相成り、火勢漸く衰え始め申候。
 扨此処の火は地底より燃出す候火と云う訳には無之、高温による自然発火に有之候而、硫黄に火燃え付きし事に候間、地鳴山震の事は無之によし、嶋にて居候秋田生れ徳右ヱ門とや、明礬岩の中に座し燃る当山の硫黄は三尺より四尺、深き処は八尺位、土中に有之候よし、実に左様のことに相違無しと存ぜられ候。椴法華・根田内、シマトマリ村は昆布稼ぎのこと、皆船にて遁去り時節柄由なきも大々漁猟の妨に相成ることに候。「蝦夷日誌松浦武四郎尻岸内町史、1970)
 
・1845年(弘化2年8月)  後方の山岳暴風雨の為め突然崩壊して全家倒壊数十人の死傷者ありしより住民漸次島の地に移りたりと云ふ。「大正8年村勢力一班」(椴法華村史年表、1989)
 
・1846年(弘化3年7月30日)  大雨のため山崩れ発生、死者多数。「蝦夷日誌松浦武四郎尻岸内町史年表、1970)
 
・1846年(弘化3年7月30日)  北海道恵山泥流ヲ流シ山麓ノ人家ヲ流亡ス。「大日本地震史資料」武者金吉
 弘化3年(1846年)7月晦日(?)恵山噴火し、多量の淤泥東方に流出して椴法華部落を襲ひ、今所並に民家230戸埋没し、死傷する者多し、其九死に一生を得しもの矢尻浜に移りて部落をなせり。「北海道史」
 7月晦日夜恵山より淤泥を沸淘して麓なる椴法華村の人家を押し亡す。「松前方言考」(維新前北海道変災年表)
 「弘化三年九月晦日夜にてやありけんエサンという処の山より淤泥を沸淘して麓なる椴法華村人家ともにおされてほろびたり…是なん世にいう山津波にてありけんか。」「松前方言考」淡斉如水(図3.16参照)。

図3.16 弘化3年の活動を伝える古文書、淡斉如水著「松前方言考」の写し(椴法華村史年表より再録)

 以上、1841年の噴火は確証がなく、1845年には硫黄の自然発火が見られるほど噴気孔温度は上昇し、1845・1846年(旧7月30日)には大雨が泥流(土石流)を誘発して山麓に災害を与えた。1846年(旧9月30日)にも泥流が発生し、山麓に災害を与えているが、「…山より淤泥を沸淘して…」(松前方言考)という記録から、この泥流は直接噴火により発生した火山泥流(ラハール)に思える。北海道史の「恵山噴火し、…」という記述は、そのような解釈を与えたものであろう。もし、このような解釈が妥当ならば、恐らく恵山溶岩円頂丘の一部で小規模な水蒸気爆発が起こり、火口から直接火山泥流が発生したのであろう。北海道史にみられる「…多量の淤泥東方に流出して椴法華部落を襲ひ、…」の記述から、恵山溶岩円頂丘の山頂北東部付近から泥流が発生し、沢伝いに東麓の椴法華村水無海岸を襲ったように思われる。この泥流(土石流)に相当すると推定される堆積物は、水無沢の沢口に現在でもみられる(第1章 第3節)。
 恵山溶岩円頂丘は、19世紀中頃を通して活発な噴気活動を続けていたらしい。この噴気活動の様子を伝える古文書として、つぎに掲げる姫路の儒学者、菅野潔による紀行文「北游乘」がある。
 
 安政四年四月二十八日(1857年5月21日)尾札部 恵山、左六場極東岬、為近函第一火山、自根他内登、不太険半里余可達竈口、(煙火噴出、地皆釁折、如欠脣、俗呼日竈口)山半腹以上、無寸草尺木如人之祖而立、山頂巨石、似枯骸畳積之状、色皆焦黒間有赭色巨石下、皆黄色灰色、其黄色者純硫也、灰色者、硫滓乾泥也竈口十余、噴煙騰々、如飯鍋蒸沸之状、足底革堂々之声、葢火気充積山心、僅有隙罅、乃発、猶廱腫火欣張将決也、試柱杖□刺地、煙焔衝杖(きょう)而起、隠処皆然、煙中常挟火、猛烈不可当、偶近竈口、火気煦面硫臭入口鼻、咳嚔不能忍予游北地、自夭臼樽阿干(ウスタルマエアカン)諸嶽、至其地名称未著者見火山亦多、然遠望仰視、唯見其濠々然浮々然而己、今日親究其状景、可愕可懼非筆墨之所能悉也、有温泉、不太熱、宜滌眼翳、此山硫黄品尤佳、土人旧置厰熟晒、輸販上国、後以其寡利廃之、(害漁事也)近日 官将復興之、山上有残雪、凝積不融、晶明如老氷、温泉注干其側、浮々蒸騰是亦理之不可究者也。
「北游乘」菅野潔、市立函館図書館蔵(田中館秀三、1930より引用)
 
 上述の紀行文には「煙中常挟火、…」とあり、この年、硫黄の自然発火・燃焼があったかも知れない。全般的な記述からは、1857年頃の恵山溶岩円頂丘の噴気活動が、現在よりやや激しかったという印象を受ける。