函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 銭亀沢編

第三章 産業と社会そして人・地域

第五節 銭亀沢の女性

[銭亀沢の女性]

 ようやく子育ても落ち着いた昭和二十九年、戦後まもなく樺太から引き揚げてきて、同じ町内に住んでいた川村タマが中心になって婦人会が結成された。この婦人会は、町内会から独立した組織として結成されたが、漁家の多い古川地区では、漁業協同組合と町会は切っても切れない関係にあったので、町会婦人会=漁業協同組合婦人部として活動した。古川町の婦人会は、設立当初、町内の地区を七部落に区分し、さらに各部落を三つの班にわけた。その後、町内の川尻の方に家が増えたため、昭和四十年には七部落から八部落に変更になった。婦人会には、一軒から一人二〇〇円の会費を払って参加することになっていたが、設立した頃は、会費の代わりにマキを出す人もいたという。
 婦人会の仕事の主なものは、町会が主催する行事の手伝いで、お祭りのときに踊る人(おどりやま)を募集したり、祝儀(おはな)を集めたりすることだった。敬老会のことは、ほとんどを婦人会が主催した。また、漁業協同組合の貯金日などを設け、組合への貯金の斡旋もした。漁家の女性たちの負担を少しでも軽くしようということから、本間ウタが会長のとき、婦人会が経営する「季節保育所」を開設した。四月から十二月の九か月間の開設である。設立と同時にたくさんの子どもが預けられ、保育所の先生だけでは手が足りず、婦人会の部長たちも手伝いにいったという。
 ところが時代が経るにつれ、漁業に従事する家が少なくなり、町会から独立して婦人会を運営することがしだいに難しくなってきた。そこで彼女が婦人会の会長に就任した時(昭和五十年)、町会から助成金をもらうことにして従来の婦人会を町会の婦人部として位置付けることになった。形のうえでは町会の婦人部となったが、その役割は、それまでとほとんど変わることはなかった。

表3・5・2 昭和50年頃の古川町婦人会のおもな仕事


[古川町婦人会会則]

 昭和五十年以降の町会婦人会の一年間の仕事(表3・5・2)と、設立当初の婦人会会則は、前ページのとおりである。
 現在の古川地区ではサラリーマンの家庭が半分以上を占めるまでに変容してしまった。その結果、地区における女性の役割や家庭での女性の仕事にも変化がみられるようになり、しだいに婦人部に入会する女性は減少した。そのため会員が減少し、会として機能しなくなってきたため、平成五年、婦人部はついに解散となった。
 その後、婦人部が設立当初から敬老会の一切を取り仕切っていたこともあり、高齢化社会という現状からみても、町会の婦人部がまったく機能しないというのも難しいため、町会長の呼び掛けで、再び婦人部が復活することになったが、現在、活動はほとんどおこなわれていないという。
 当時の女性がいかに強くたくましかったのか、米子の夫であり、現在の古川町会長である山鼻節郎は、ともに頑張ってきたパートナーとして次のように語った。「半農半漁の生活を送っていたつい最近までの漁家の男性が頑張れたのは、女性のおかげだ。実際に漁師を続けていられるのも女性が家を守ってくれるからで、離婚してしまった男性のほとんどは漁師の仕事も農業もやめてしまった。女性の影の力があったから生活が成り立ったんだ。この夫婦二人三脚でおこなう仕事で、周囲からもはじめて一人前の男として認めてもらえた」と。