函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 銭亀沢編

第三章 産業と社会そして人・地域

第一節 銭亀沢の漁業・漁村構造の変容過程

一 明治期の漁業生産と経済構造

 鰯に次ぐ主要水産物は昆布であった。昆布は古くからこの地域の特産物で、「志苔昆布」の名称で最上の銘柄品になっていた(第二章第三節参照)。
 明治期の記録である『予察調査報告』によると「渡島国ニ於テハ元昆布志苔昆布細目等ノ数種アリテ各々産地ヲ異ニス則チ元昆布茅部砂原ヨリ椴法華…志苔昆布ハ亀田郡小安ヨリ函館区大森浜ニ至ルノ間ニ於テ産シ志苔、石崎地方ヲ以テ其著名ナル処トス…細目昆布ハ主ニ松前郡」、そして「志苔昆布ハ普通巾一尺四五寸丈ケ一丈五尺乃至二丈ニシテ折昆布(通称志苔昆布)ヲ製スルニ適ス此昆布ハ元昆布ト異ナリ海底稍深キ処ニ生ズ即チ志苔、石崎地方ノ如キハ陸ヲ距ル百五六十間乃至千間ニ及ビ三百間内外ヲ以テ繁茂ノ処トス」とあり、石崎から志海苔に至る銭亀沢地区は、亀田郡では最良の昆布産地であったことがわかる。
 当時の銭亀沢地区の昆布生産量は不明であるが、前掲の『開拓使事業報告』には、亀田郡全体の銘柄別の昆布生産量が記載されている(表3・1・7)。これらの中で、銭亀沢村の産物とみられる昆布は、折昆布と花折昆布の二種類である。
 この頃、一般に昆布採取に着手することを「鈎(かぎ)下ろし」と呼んでいる。この「鈎下ろし」の日時は、その年の昆布の成育状況によって決められたが、早い時は五月上旬から遅れても八月中旬頃までで、七月下旬から土用の入りまでが、「鈎下ろし」の標準とされてきた。
 昆布の採取量は、「鈎下ろし」から最初の数日ないしは十数日の間が最も多く、従って「鈎下ろし日」を決めることは、昆布採取に当たる漁業者の利害に直接関係することになるので、「昆布成熟ノ時期ニ近付ケハ其地同業者ハ予メ発生ノ多寡営業準備ノ整否…ヲ参酌シ協議ノ上鈎下ロシノ日ヲ決定シ天候ノ如何等ニ依リ多少ノ伸縮ヲナスヲ例トス是レ各員一斉ニ出船就業シ以テ小数当業者カ壟断ノ慾ヲ制センカ為ナリ」(明治三十五年『北海道水産報告』巻之三、以下「昆布採取業報告」とする)とあるように、採取者は、漁業組合が決めた「鈎下ろし」の日に一斉に出漁してその統制の下に昆布採取をおこなっていた。
 亀田郡の昆布採取の時期と日数は、表3・1・8のようになっていた。
 昆布採取の用具には、捻(ねじ)り、棹、まっか、鎌、鈎などがあったが、この地域では、主に棹が用いられていた。これは「ねじり」ともいい、長さ四尋(一尋=約一・八メートル)の楢材を用い、先端部に昆布を搦めるためのねじり木が付いており、他の端には巻き付けるための握り手が付いていた。漁船は、磯船が最も
多く、数人乗り込む場合は持符船が使用された。乗組員の数は、捻りを使用するときは二人で、一人が棹を操り一人は棹に付けた細綱を手繰り、昆布の引き揚げを助けた(第三章第二節参照)。
 「昆布採取業報告」には、根崎村の昆布船一隻当たりの就労人員と採取量を挙げているが、就労人員は、沖働二人、陸働二、三人で、採取量は、一〇石から一二、三石。沖働一人当たりの採取量は五石ないし六、七石となる。一人乗りもあるが、三十三年では、一人乗りで一九石、二人乗りで二五、六石(一人一二、三石)を採取したものもある。

表3・1・7 亀田郡の銘柄別昆布生産量  単位:石


表3・1・8 亀田郡の昆布採取時期および日数