函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 銭亀沢編

第一章 歴史的概要とその特性

第三節 志苔館とその周辺からみる中世世界

[志苔館とその周辺からみる中世世界]

 「北海道函館市」の「北海道」は、明治二年、松浦武四郎が「蝦夷地」を改めて命名したものである。「北海道」と命名される以前、北方地域はどのように呼ばれ、どのような人びとが実際に生活していたのであろうか。また銭亀沢地区に存在した「志苔館」(『新羅之記録』には志濃里館とあるが、ここでは昭和九年国の史跡に指定された「志苔館」の名称を用い、地域名については現在の町名の志海苔で統一する)は、一体、誰が、いつ、どんな目的で築造したのだろうか。そして館の南側から発見された「志海苔古銭」は、なぜ埋納されたのだろうか。
 北方地域は、その居住民の名称ともども、時代とともに変容する転変常なき地域であった。八世紀のこの地は、「エミシ」の住める相対的に自由な地として、「日高見国(ひたかみのくに)」「蝦夷国(えみしのくに)」と「国」呼称された。しかし、一一世紀に入ると民族呼称も「エビス」と変化したのに対応し、地域名も「賊地」「狄地(えびすのち)」「胡地(えびすのち)」と「地」呼称されるようになった。それが、地域・民族名もろともに、「夷嶋(えぞがしま)」、「エゾ」と変化したのは、一三世紀の鎌倉時代のことであった。ここに、「エゾ」=中世アイヌが成立した。
 これ以後、中世はこの名称でおおむね推移し、今の北海道を「蝦夷地」と呼ぶようになったのは、一七世紀に入ってからであった。
 北奥の安倍・清原氏さらには平泉藤原氏の歴史的営みを受けて、津軽十三湊の安藤氏(安藤氏の表記には安藤と安東があるが、ここでは安藤に統一する)が鎌倉幕府の「蝦夷管領」として、北方世界に君臨するようになるのは北条義時の治世下である。『諏訪大明神絵詞』にいう、「武家其の濫吹(らんすい)を鎮護せんために、安藤太と云ふ物を蝦夷の管領とす。此は上古に安倍氏悪事の高丸と云ける勇士の後胤なり」がそれである。
 鎌倉幕府と北方地域の「夷嶋」との基本的なかかわり方の一つは、『吾妻鏡』をはじめとする諸史料が伝えるように、「蝦夷管領」安藤氏を介した罪人の流刑であった。もう一つは、古代の「エミシ・エビス」の血統を継ぐ「蝦夷管領」安藤氏が大々的に展開した北方交易をめぐる北奥と「夷嶋」との交流である。「海の領主」としての安藤氏が繰り広げたまさにボーダレスの海運・交易活動の中に、中世「夷嶋」が深くかかわっていたのである。
 具体的な固有名詞をともなって、銭亀沢地域が中世の歴史に登場するのは、その鎌倉時代を経過したのちの室町時代のことである。志苔館の築造とその領主小林氏の登場を待って、中世の銭亀沢は幕が開く。