函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 亀田市編

[亀田市編]

第二章 大地にいどむ

第五節 産業の進展

三 亀田と馬

 『松前蝦夷記』〔享保二(一七一七)年〕には
 
  一 馬
   松前西東在郷多ク有之、野牧も有之、野山に放し置申ゆへに野牧のことくに候へとも、大方主付有之馬なり、五月節句頃より八九月頃まて家々に牽入遣イ申候由、飼料草斗ゆへに馬ハ能候へとも力なく候。草も煮草ハ不飼生草斗也、馬屋家外垣を結廻シ屋ね無之所ニ入置申候、八九月過候ヘハ又野え放シ置申候。大形毛ハ鹿毛くり毛黒毛斗也、外毛色ハ見かけ不申候。右馬何里牽廻り候へても沓打不申、沓打申候得ハありき不申旨申候、物見申候躰也、乗馬ニも成不申由、尤乗立見申候事も無之よし、大形乗馬は仙台南部より調申候よし
 
 とあり、ふだんは野山に放し飼いにしておき、必要になれば連れて来て家近くのさくの中に入れておき、また不用となる八、九月ころには野に放してやり、草のみで飼育していた。
 また、このころの馬は主として駄馬として使用され、大部分がいわゆる土産馬であったが、乗用にする馬は仙台、南部方面より移入されていたことがわかる。
 馬の性質や荷運びの様子などについて天明四(一七八四)年の『東遊記』は次のように記している。
 
   馬、当地に産するもの駿足多し。南部、仙台の産にもまさり、岩石の上にも沓を打事なし。性おだやかにして、五疋、六疋一人にて取廻すに、道抔よけ、或は休むにも口取有が如し。
   此所にては小駄の馬方口に付く事なし。馬に乗て先へ立、其鞍に段々綱をつけ、つなぎ付て引、道甚だ嶮岨なれどもつまづく事なし。はねあひ、蹴つ、踏つする事更になし。旅にても家にても、荷を卸せば野放しにして、心のまゝに草を飼ふ。しるしなどする事なし。いか様よく馬を愛するものならば、名馬出べき地也。
 
 また、寛永十(一六三三)年幕府巡見使が派遣された時、西は乙部(爾志郡乙部村)、東は石崎付近(函館市石崎町)までを巡見したが、これは、これより奥地へは馬の通行ができなかったためといわれており、この巡見使一行は多数の人員と荷物を伴っており、亀田地域の村々でも助郷のために人足や馬が多数かり出されている。
 『逢坂氏日記』によれば、寛延三(一七五〇)年亀田郷中の馬数を「八百九十三疋」と記している。亀田郷というのは既述のように上磯町字富川町村付近から大野、函館、小安付近に至る地域である。
 次に天明六(一七八六)年の『蝦夷拾遺』により亀田郷に属すると考えられる村名と戸数を記し、これに寛政九(一七九七)年の『松前東西地理』から馬に関する記事をまとめて見ると次のようになる。

[馬に関する記事]

 この表から農業中心と考えられる富川村から亀田村、それに商業中心と考えられる箱館村には馬があり、漁業中心と考えられる尻沢部、銭亀沢、小安などの諸村には馬の記事が記入されていない。
 漁村では漁獲物の大部分が舟で運ばれたために、馬はあまり使用されなかったものであろうか。しかし馬が全然いないということではなく、数が少なかったために記入しなかったものであろう。漁村でも不漁の年や漁期以外には駄賃稼をしたり、他所へ馬をつれて出稼ぎに出かけたりする者が現われ、更に助郷馬の必要などからこれら漁村でも馬を飼育する者も増加しているようである。
 『東在弐拾六カ村様子大概書』に、銭亀沢村、戸切地村などは「箱館へ仕送り駄賃を重の渡世とす」と記されている。