函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 亀田市編

[亀田市編]

第二章 大地にいどむ

第三節 村々の誕生と移り変り

八 桔梗村の開拓

 安政六(一八五九)年二月、東本願寺箱館御坊役僧開明らの実地調査に基づき、四月東本願寺本山使僧斎聖寺徳善から箱館奉行に開墾地使用願いが提出され、同月土地使用が許可となり、「東本願寺開発場桔梗野」または「六条郷安寧村」と称し、開拓が始められることになった。
 東本願寺の開拓地は最初後志地方となっていたが、同寺では桔梗野の開拓について次のように箱館奉行所に願い出ることにした。
 
     以書附願上
  今般蝦夷地開墾の義に付、従御門主御使僧を以過日御願被仰入候。就夫地所の義は於御奉行所ニ御吟味の御次第も可御座候ニ付、好みケ間敷義ニては無御座候得共、可相成は西蝦夷地ヲタルナイ、イワナヰの両所御切渡被成下度、就ては遠境の儀、直様右地所え人夫難差遣、仍箱館近在ニ農夫足溜り取立置、夫より彼地え農夫差送候様仕度候間、桔梗野乗馬野ニおゐて御別業取立、且其辺荒蕪の場所田畑開発仕度、右ニ付人家多分ニ取立候ニては第一薪炭貧敷候ては難渋仕候故、桔梗野奥雑木有之候近山、薪炭場所ニ御渡被下置候ハバ人家も多分ニ可相成且薪炭の雑木伐採候跡えは松、杉、添木等植候ハバ永年御国益ニも可相成と奉存候。其上茅辺、軍川も田畑開発仕度、是等の趣奉願上候様、従京都仰付越候間、何卒早速御聞済被成下候様奉願上候。以上
          安政五年 午十月
                               大  千
       箱館 御奉行所
      (『明治巳二年七月 沽券地御用留 裁判所庶務局』 北海道行政資料課蔵)
 
 右の願出により奉行所において調査し、また秣場(草刈場ならびに放牧地)として使用していた各村の同意を得て許可されることになった。東本願寺開発場願済の地所は次のとおりであった。
 
  亀田 上山 入合字桔梗野
  赤川 間口千拾壱壱間 奥行三百間 此坪数三拾万三千三百坪
 
 これに対して、次のように名主から書状が提出された。
 
  右地所御願ニ付、差支無之候旨申上候ニ付、私共為御立合御取調御引渡被成候処相違無御座候。依て奥書印形差上申候。以上
                         亀田村 名主 源 蔵
                         上山村 名主 熊次郎
                         赤川村 名主 竹次郎
                      (同前・沽券地御用留)
 
 また、本願寺御別院仮建ならびに桔梗野開墾諸用取扱の会所取建についても、その地所について、従来上山村秣場に使用して来たものであるため、建設しても差支えない旨の「差上候一札之事」「一札之事」「口上覚」がそれぞれ赤川、亀田、上山の各村名主から本願寺あてに提出された。本願寺からは箱館奉行所へ届出て正式の許可を得、桔梗野の開発が決定した。『東本願寺北海道開教史』に、「耕地約七百町歩、秣場約五十六万八千坪」と、貸下げ地の面積が記されている。
 開拓に当っては、安政六年春、まず六条郷安寧村の背後にある障子山から木材を切り出し、桁(けた)行一〇間、梁(はり)間三間の長屋二棟を建て、この年の移住者一九戸を住まわせ、開拓地の割当を行い、以後各戸の住居建設を行った。移住者の大部分は気候、風土に不慣れであり、更に経済的にも不安定で、これらの人々に対して東本願寺箱館御坊は、農具、種子、食糧、家畜、住居などについて援助を与え、生活の安定を図り、開墾の促進に努めた。なお、左のような鑑札が桔梗野の入植者に付与されていた。
 
         桔梗野御百姓に御取立候事
           年  月  日
                    箱 館 御 坊 ㊞
 
 『安政六未七月改 桔梗野百姓人別帳』には入植者の出身地、戸数、性別等を次のように記している。(要約略記)
 
 ○戸 数 安政六年入地者 十九戸 万延元年入地者 二戸 合計二十一戸 人員六十二名
 ○出生地 能登 七 南部 四 秋田 三 越後 二 津軽 一 常陸 一 江差 一 不明 一
 ○人口 六十二名 男三十九名 大人二十五名 小人十四名 女二十三名 大人十八名 小人五名
 
 移住者の住居を確保した本願寺は、次の事業として、万延元(一八六〇)年五月、桔梗野別院仮堂三〇坪の建設に取りかかり、七月二十三日完成、以後移住民の信仰の中心、開拓事業の指導監督の場として利用できるようにした。桔梗野別院は最初広大寺と公称していたが、後に宝皇寺(ほうおうじ)と改め、詰番一名、伴僧一名、下男一名の合計三名により、寺の法務及び開拓事務が行われた。