函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 亀田市編

[亀田市編]

第二章 大地にいどむ

第三節 村々の誕生と移り変り

四 赤川村の発達

 赤川村の名が初めて資料に見られるのは、天明元(一七八一)年の『松前志』である。
 
  七重村         亀田村 昔時の番所也。城下より四里六丁二十四間
  赤川村         湯川村 温泉あり 二ケ村あり
  鍛冶村         凾館村 古名宇須岸、今は番所あり、大津なり
 
 と記されているが、どういうわけか上山村が記されていない。また天明六(一七八六)年の『蝦夷拾遺』には、
 
  七重村 五十戸不足 二百六十余人    上山村 五十戸不足 二百七十余人
  鍛冶村 四十戸不足 百八十余人     上湯川村 三十戸不足 百二十余人
  下湯川村 五十戸不足 二百余人     亀田村 三十余戸 百四十余人
  箱館村 四百五十戸不足、二千五百余人、此所へも諸国の商船湊ひ来て市をなす事松前に等し、因之松前、江差、箱館を三港と云。
 
 とあり、上山村が記されているが、赤川村の名が見当らない。赤川村は、初め上山村の一部であったためであろうか。
 赤川村の起原について『各村創立聞取書』に次のごとく記されている。
 
  一 正徳四(一七一四)甲午年中当郡神山村居住喜右衛門、覚右衛門、金ノ丞ノ三名赤川沢エ 当時亀田郡赤川村ヲ云フ 木屋懸ケイタシ、薪并笋菌〔タケノコキノコ〕等狩取、当郡箱館市街ニ村出シ売捌キ生話(マヽ)ト為シ居候処、享保十三(一七二八)戊申年春中奥州南部津軽ノ両所ヨリ凡十四名位赤川沢エ出稼ニ参リ、該年中畑地ヲ若干開墾シ、同年十月中其儘永住致、前条神山村喜右衛門外二名ノ者モ赤川沢エ移住イタシ、則赤川沢ヲ赤川村ト称シ候由。
 
 右の記事から、正徳四年上山村の住人喜右衛門、覚右衛門、金ノ丞の三名により赤川沢に開拓の手がつけられ、その後享保十三年には南部、津軽方面からの出稼人一四名と前記の神山村住人三名が定住を始め、赤川沢の地名から赤川村と称するようになったことがわかる。
なお同資料には
 
 一 畑ノ起原及ヒ沿革
 享保十三年同郡神山村農喜右衛門外二名者共并南部地ノ者、津軽地ノ者十四名都合十七名程尽力ヲシ、今赤川村於テ鋤鍬ノ器械ヲ仕用シ、初テ畑ヲ開キ粟、稗及大豆蘿蔔(ダイコン)、蕪菁(カブラ)ノ類ヲ播収
 
とあり、この時代の赤川村の畑作物の種類を知ることができる。