函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 亀田市編

[亀田市編]

第二章 大地にいどむ

第二節 蝦夷の戦いと亀田

四 亀田の変容

 以上によって知られるように、何度かの亀田川の洪水により亀田港に土砂が流入し、港として使用しにくくなった。このため交易船は箱館港の方へ停するようになり、これに伴い亀田村にあった交易船相手の商売をしていた商家も箱館の方に居を移すようになり、次第に役所や寺社も人口の多い箱館へ移動して行った。
 『松前蝦夷記』は当時の状況を次のように記している。
 
    東在郷亀田村
   右ハ番所建置、常々番人給人侍遣シ置申ヨシ、当村ニ已前ハ船懸リヨキ澗有之候ヘドモ、近年遠浅ニナリ、船懸悪敷相成候故、同所向合セノ箱館村卜申所澗有之、諸国ノ船多ク懸リ申候故、船改並ニ蝦夷地ヘノ往来商売船等相改申由。
 
 次に主な役所、寺社の移動年月を掲げる。
 
○元禄三(一六九〇)年 亀田の称名寺箱館に移る。
○宝永三(一七〇六)年 亀田の高龍寺箱館に移る。
○元文六(一七四一)年 亀田奉行箱館に移る(箱館に移動してからも亀田奉行所又は亀田番所と称した)。
 
 かくて寛文十年に二〇〇軒もあった亀田村は、港を中心とする商業の村から農業中心の村へと変容し、戸数も宝暦八(一七五八)年約二三、四軒、天明六(一七八六)年三〇軒一四〇余人、文化四(一八〇七)年家数二八軒、人別一三二人というような状況となった。
 坂倉源次郎の『北海随筆』によれば、
 
   亀田と云所は土地平坦にして一国の都会の地となしつべし。西北に山連り聳えて蝦夷地の堅め也。東南は入江にして数十艘の船も風波のおそれもなし。海を隔て南方には南部領佐井、大間等の湊も七、八里の渡りにあり、潮の流れも穏かにして龍飛、白神の如く成激流なし。風景優美にして、箱館の山海中に突起し、入江の屛墻ともなれり。此地を以府中とする時は、往々仙台、水戸辺の船々も入りつどひて箱館より江戸廻船自由なるべし。又江指より上方廻船自由する時は、海路に於て事足りぬべし。さて又亀田の平地凡四、五万石開墾して、他国の豊凶にあづからず、汐を汲て塩となし……
 
 というような意見もあったが、以後亀田村は農村となり、農民の努力により一歩一歩進む、じみな開発が行われてゆくようになった。