函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第13章 社会・文化諸相の光と影

第5節 日露戦争と函館

1 函館の防備と函館要塞

 そして最後に設置されたのが函館要塞(函館砲台)である。まず明治30年3月、陸軍築城部の函館要塞築城事務所が開設され、大倉組の手によって函館の市街と津軽海峡を見下ろす標高300余メートルの函館山での要塞工事が開始された。その築造費であるが、明治33年2月4日付の「函館毎日新聞」によれば、既定総額53万2016円91銭6厘の内、同32年度までにその約48パーセントにあたる25万4348円が支出され、残りの27万7668円91銭6厘は、同33年度以降の支出額とされている。それと共にこの記事は、砲台建築費が改定されて、同33年度から35年度までの3年間で計54万7668円91銭6厘が追加されることになった事実も伝えている。これらをあわせれば、函館要塞の総築造費は80万2016円余となり、これに備砲代を追加すればその費用は更に巨大な金額に達したと推定される。困に、同29年6月に着工し、33年9月に竣工した函館港改良工事の予算額は82万円余であった(會田金吾『函館山要塞の終焉』Ⅱ)。
 明治32年11月に要塞工事が完成するとともに(前述の「既定」費改定前の工事と思われる)、翌33年5月函館要塞司令部が設置された。当時の司令部は函館要塞砲兵大隊本部内に置かれ、要塞司令官も同砲兵大隊長が兼任していたが、36年4月に要塞司令部条例が改正され、専任の司令官を置くことになった。このため同5月、新任の司令官として秋元盛之大佐が着任し、要塞司令部も砲兵大隊内から谷地頭町に移転、独立した。
 以上のような経過からみると、函館要塞の第1期工事はおそらく明治35年度までに完了したと考えられるが、その砲台の配備は、御殿山第一(28インチ榴弾砲4門)、御殿山第二(28インチ榴弾砲6門)、薬師山(15インチ臼砲4門)、千畳敷(28インチ榴弾砲6門、15インチ臼砲4門)、F点(箇所不明、9インチカノン砲4門-内2門は練習用)となっている(「要塞防禦計画訓令綴等」防衛庁防衛研究所蔵)。

図13-3 函館要塞地帯近傍の測量等制限区域

 明治31年10月4日付「北海道毎日新聞」より
 
 一方、函館要塞の築造工事が進行中の同31年7月28日、勅令第176号をもって「要塞に於ける各防禦営造物の周囲より外方五千七百五十間以内の水陸の形勢を測量模写撮影筆記せんとする者は何れの場合を問はず当該要塞司令官の許可を受くるにあらざるよりは之を為すこと能はざる旨」(明治31年10月4日付「函館新聞」)が公布された。その直後、陸軍省告示第11号により全国の7要塞地帯の近傍5750間(約10キロメートル)以内の郡区町村名が明示されているが、函館要塞地帯近傍の測量等制限区域該当町村は次のようになっていた(図13-3)。
 
函館区 一円
亀田郡 銭亀沢村、上湯川村、志苔村、下湯川村、根崎村、鍛冶村、神山村、赤川村、七飯村、大中山村、桔梗村、石川村、亀田村、大野村、千代田村、一本木村、文月村
上磯郡 清川村、中野村、上磯村、谷好村、富川村、茂辺地村、石別村

 
 そして、函館要塞司令官が任命されていないため、前記の該当事項に関する許可は要塞築城部函館支部長に願い出ることとされ、その違反者には11か月以上1年以下の重禁錮、2円以上50円以下の罰金に処せられたのである(前同紙)。
 さらに翌32年7月15日、法律第105号をもって全31条から成る「要塞地帯法」が公布されている。同法によれば要塞地帯を3区に分け、「第一区は基線防禦造営物の各突出部を連絡する線より二百五十間以内、第二区は基線より七百五十間以内、第三区は基線より二千二百五十間以内とし、此地帯内水陸の形状は要塞司令官の許可を得るに非れば、之を測量、撮影、模写、録収する」ことが禁止されたほか、さらに「要塞地帯外と雖も、第三区の境界線より外方三千五百間以内の区域に於て之を通用する」(『函館区史』)と定められていたのである。つまり函館要塞の「基線」から約4キロメートル以内は、要塞司令官の許可がなければその地形を「測量、撮影、模写、録収する」ことはできず、さらに「第三区の境界線より外方三千五百間以内の区域」、換言すれば「基線」から約10キロメートル以内も同様の制約下にある、というものであった。
 かくして函館要塞の存在は、前記のような要塞地帯法とともに、その後昭和20年の日本敗戦に至るまでの約半世紀の間、外敵に対してのみならず、本来であれば要塞が守るべき函館の市民に対しても、様々の重圧を与え続けてきたのである。