函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第13章 社会・文化諸相の光と影

第5節 日露戦争と函館

1 函館の防備と函館要塞

 こうした函館における戒厳令の施行は、区民の生活にも様々の制約を与えたと思われるが、そのような問題は次項に触れることとして、ここでは、明治初期から日露戦争に至るまでの函館の防備状況について概観しておこう。
 明治2年7月、周知の如く維新政府の手で開拓使が設置され、北海道開拓事業がスタートすることとなるのであるが、この時点での北海道内の軍事力は、わずかに箱館府兵1中隊が存在するのみであった。同年8月、開拓使はこの箱館府兵を函衛隊と改称してその直属としたが、この箱館府兵や函衛隊は、その名称からも明らかなように事実上は開港場函館の警備を目的としたものに過ぎず、その実態も同4年2月段階で、総員174名の編成にとどまっていた。
 明治4年4月、函衛隊は護衛兵と改められたが、翌5年6月には、この護衛兵も解散の上、廃止されている。そして、護衛兵の中から35名を選んで砲兵を置き、号砲・祝砲の取扱要員とした。また、護衛兵解隊費を以て邏卒を置き、治安の維持にあたらせることとしたのである。
 こうした状況の中で、明治6年5月、渡島半島西岸部の福山、江差を舞台とする福山・津軽両郡の漁民約2000人による大蜂起、いわゆる福山・江差騒動が引きおこされた。開拓使はこの事件を鎮圧しようと意図したが、種々協議の結果「所詮兵力ニアラザレハ鎮圧致シ難キヲ慮リ、少主典日比野次郎ヲ青森ニ遣シ分営ノ兵ヲ乞」(「開日」)うこととなった。即ち、函館の砲兵や邏卒を動員するだけでなく、仙台鎮台青森営所(後の青森歩兵第五連隊)から2個小隊の増援を仰いだのである。この事件は、はからずも開拓使管轄下の北海道の支配機構が、極めて脆弱であることをさらけ出す結果となり、屯田兵制度の設置される遠因になったと考えられる。
 さて明治6年4月、函館に青森営所より砲兵が分遣されることとなり、前述した函館の砲兵及び砲台は陸軍省に移管された(『開事』第5編)。そして同年6月、これらをもとに函館砲隊が編成されている。当初砲隊の兵士は、函館在住の人々を中心に志願兵を募り、補充していた。しかし、年々志願者が減少して欠員が生じるようになり、一方では、陸軍の兵制関係規則類も次第に整備されてきた。そこでこうした事態を打開するために、明治10年より函館、福山、江差の3地域に徴兵令を適用し、同地の人民の中から兵士を徴募することになった。
 最初の徴兵検査では、前記の3地域の「丁壮」280名の内、「徴兵相当ノ者」は83名であったが、彼等は「体質不良ニシテ、検査合格ノ者僅ニ一四名ニ過キス。故ニ常備徴員若干ノ欠乏ヲ生シ、第二軍管ノ補充兵ヲ以テ其不足ヲ補フ」(『陸軍省第二年報』)という状況であった。この『年報』は、「軍紀風紀」の項でも次のように述べている。「函館砲隊タル隊制ノ異ナルヨリ、万般ノ障碍尠ナカラサルヲ以テ他ト同規ニ改正アランコトヲ切望スル既ニ久シ。現ニ獄中ノ犯罪三名ノ如キハ、該隊ノ火薬雷管ヲ窃盗セシニ係ル。蓋シ盗犯ハ概ネ窮迫ニ出ルト雖ドモ、斯ノ如キハ未タ他隊ノ兵ニ於テ類例ヲ聞サル所ナリ」(同前書)。また、『陸軍省第三年報』においても、函館等からの徴募兵は、「品等」が「下等」であると指摘されているが、このような記述から、函館砲隊の内部状況を知ることができよう。なお、函館砲隊は、明治20年4月に廃止されている。
 その後明治16年11月、青森歩兵第五連隊第三大隊より2個中隊が亀田郡亀田村の千代ヶ岱に移駐し、道南地方の警備を担当することになった。翌17年8月には2個中隊が増強され、完全編成の1個大隊となったのである(「管轄略譜」『北海道史』附録)。