函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第13章 社会・文化諸相の光と影

第4節 社会労働問題

 久津見息忠(蕨村)とともに函館平民新聞読者会を担ったもう1人の中心人物は篠崎清次であり、後には彼が実質的なリーダー的存在であった。
 函館平民新聞読者会は主に青柳町の函館訓盲会や、相生町の篠崎清次宅で開催された。篠崎清次は函館訓盲院長で、北海道盲唖教育の先覚者と称される人である。彼は明治14年愛知県の生まれで、当初医師を志したが幼少の頃より目を患い強度の近眼であったため医師になることを諦め、函館に嫁いでいた姉を頼り明治30年2月に来函した。当時、青柳町には東京以北唯一の視力障害者の教育を目的とした訓盲会(明治28年、米国のドレーパー宣教師の母、ピンクニー・ドレーパー設立)があり、篠崎はここの生徒となり、また熱心なキリスト教徒となった。そして、明治31年卒業と同時に訓盲会の教師となり、明治37年訓盲院(明治34より改称)の院長に就任している。篠崎の人道的で社会性に溢れた人柄を示すエピソードが残されている。明治35年、聾唖の子供をもつ親から教育を頼まれ、同情した篠崎は院内に唖生部を設け、自ら翌36年東京盲唖学校で半年間聾唖教育を学び、唖生の教育に当った。この函館訓盲院の聾唖教育は京都・東京につぐ先躯的なものであった(『函館盲聾学校沿革史』)。
 篠崎は上京中のこの時、社会主義の思想に触れる機会も多かったことであろう。社会的弱者に心血を注いだ篠崎は社会運動の実践家でもあった。「大逆事件」で処刑された森近運平宛てに出した「平民社農場」(真狩村ルスツ・明治38年)創設者の原子基の手紙(明治38年8月18日付)によれば(小池喜孝『平民社農場の人びと』)、「平民社農場」設立の「資金としては一株五円にして五か年無利子として東京、横浜、横須賀、富士南、函館、小樽の同志間より四五株を募れり」と述べられており、函館、小樽に多数の「平民社農場」への支援者がいたことが分かる。その中心人物が篠崎清次であった。原子の手紙ではさらに、「相生町訓盲会主人篠崎氏は熱心なる同志にて、内地よりの同志は幾人にても引き受けとめている」と記している。篠崎は明治38年9月、「平民社農場」に入った原子基の妹が火災で焼け出された時、訓育院に引き取っている。また、篠崎は訓盲院の卒業生で盲目の小島ユキと結婚、明治38年11月男の子を儲けているが、その子に「平和」と命名している。命名時は日露戦争の講和条約をめぐって、国内が騒然としていた時であることを考えるならば、彼がいかに「平和」への強い願いを持っていたかが分かるエピソードである。
 この他、函館平民新聞読者会会員に高林庸吉(1869~1948)がいる。彼は、明治24年に新しい理想郷を目指して建設された同志社系インマヌエル村の創始者の1人であったが、明治36年2月より、函館宝小学校の教員を勤め、大正5(1916)年末に退職し、今金に戻っている。「平民社農場」の原子基は同農場の開園に当って、函館の篠崎清次を訪れ、高林庸吉とも会い、彼の案内でインマヌエル村を訪れている。
 正満又七(1881~1962)は、富山の薬行商人として道内を行商して歩いて回り、社会主義者と連絡を取るなどの活動を行い、篠崎清次と行動をともにした。その他函館平民新聞読者会には内藤正一、鶴崎某、渡辺佐吉、松居音五郎、木下松太郎らが参加している(堅田精司編『北海道社会運動家名簿仮目録』)。明治37年12月25日付の「平民新聞」第59号において札幌農学校卒業生で社会主義者の西川光二郎が「日本社会主義一年間の発達」と題する報告を行っている。この中で北海道内では、札幌、夕張、函館に社会主義の団体が結成されたと報告されている。また、「平民新聞」第35号によると、当時、「平民新聞」の読者は直接購読者は全国で1403名、内東京が453名で第1位、北海道が第2位の97名であり、函館の15~16名は道内で一番多いと報じている。
 しかし、社会主義の啓蒙・宣伝と日露戦争「非戦論」を唱え、社会主義者の全国的結集に大きな役割を果した「平民新聞」は、その後たびたび発禁処分を受け、明治38年1月29日、第62号を最後に廃刊を余儀なくされた。そのため函館平民新聞読者会は同年2月3日函館平民倶楽部と改称、機関誌「新福音」を発行して活動を継続することにした。そして、3月24日、6名が出席し第4回例会、5月5日、相生町の篠崎宅において3名が出席し第7回例会を開催している(「函館新聞」)。この時の例会では西川光二郎の「社会主義の伝導者」を学び、次の3か条を実行することにした。
 
一、先ず各自の家庭に於て実行を期すること。
二、すべての人に対し、なるべく同一の語調にて話し、階級的の言葉を使用せざること。
三、各自の便宜とする方面を分担して伝導に努めること。

 
 この後函館平民倶楽部の活動は細々と続けられたが、明治国家の社会主義者に対する弾圧のために明治40年代には停滞し、やがて「冬の時代」を迎えることになる。篠崎清次はこの後、本来の聾唖教育に私財を投げ出して取り組み、キリスト教社会主義、平和主義者として生涯を貫き、大正6(1917)年亡くなっている。
  また、函館には自由民権期に北海道議会開設運動の世論をリードした新聞「北海」(のち「北海新聞」と改題)があったが、明治35年廃刊となり、その後新たに「北海新聞」として継続された。明治40年「北海新聞」の社主となった長谷川淑夫(世民・1871~1942)は社会主義、理想選挙に関心をいだき、彼のもとで記者相神豊吉、崎間政雄、林儀作(1871~1940・晩年、政友会代議士となる)が活躍している(堅田前掲書)。
  明治40年5月5日、石川啄木が渋民村から来函した時には、函館平民倶楽部の活動はほとんど停止状態であった。それゆえ、当然にも啄木との間に交流はない。啄木が社会主義に関心を抱くのは「北海道放浪の旅」を経た後のことである。