函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第13章 社会・文化諸相の光と影

第4節 社会労働問題

 こうした不景気による労働者生活の悪化は、彼等の不満をより増幅させていった。また、明治37年2月の日露戦争の勃発は庶民の生活をいっそう苦しめ不満を醸成させた。この時期の函館で注目されるのは函館平民新聞読者会の活動である。明治36年10月23日幸徳秋水・利彦らは『平民社』を創設、11月15日には機関誌「平民新聞」を創刊した。「平民新聞」の読者数において北海道は東京についで多い地域であった。函館はその中でも札幌、小樽、室蘭等とともに最も活発に動いていた地域である。初期の函館における読書会の中心人物は久津見息忠(蕨村)で、「平民新聞」創刊号にもその名前が登場しているし、「社会主義諸君に告ぐ」(第19号)という一文も寄稿している。
 久津見は、万延元(1860)年東京で旗本の家に生まれ、明治12年独学で弁護士の資格を得たが、弁護士にはならず、明治14年より記者生活を送った。「東洋新報」「万朝報」「長野日報」「函館毎日新聞」「長崎新報」などを経て、明治42年「東京毎日新聞」の主筆となった。その間、「万朝報」では幸徳秋水、利彦らとも筆を競い、多くの教育論を発表している。「平民社」の社会主義者ともつながりが強く、明治39年『無政府主義』と題する書物を発行し、わが国へヨーロッパのアナキズムを紹介した1人である(『日本社会運動人名辞典』)。久津見の「函館毎日新聞」時代の足跡は定かではないが、明治39年頃には長崎に移っており、明治30年代後半の社会主義高揚期に函館において先駆的思想を持った知識人として社会主義に共鳴する人々と交流を図ったのであろう。久津見は長崎でロシア革命党員とも交際するなど、社会主義、無政府主義に共鳴する思想家でもあり、大正14(1925)年亡くなっている。
 当時、「平民新聞」がいかに期待をもって迎えられたかは、例えば「平民新聞」創刊号発行10日後の明治36年11月25日の「函館新聞」に、「幸徳秋水・枯 川両氏執筆」「平民主義社会主義平和主義を標傍し以て平民新聞と名付け週刊発行の者、記事体裁清新にして愛すべく椈すべし願はくば前途遼遠以て平民の為めに万丈の気焔を吐かれんことを」と紹介されていることに示されている。