函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第13章 社会・文化諸相の光と影

第4節 社会労働問題

 函館の社会労働運動が注目されだすのは1900年代に入ってからである。明治34(1901)年5月5日北日本新聞社が主催する「函館労働者懇親会」が弁天砲台跡で開催された。この労働者懇親会は片山潜の友人である二六新報社長の秋山定輔が主催して、同年4月3日東京向島で開催したもので、当日警察当局の規制にもかかわらず数万の参加者があった。
 この集会において片山潜は労働立法と普通選挙の請願、毎年4月3日に集会を開くことを提起し決議された。この集会に賛同した反政府系の地方新聞社は、各地方でも同様の集会を開催した。「函館労働者懇親会」開催の中心的人物は鵜飼友三郎で、彼は「北海」新聞記者を経て、北日本新聞社を創刊した。この集会に向けて北日本新聞社は片山宛てに次の書簡を差し出している(渡辺前掲書)。
 
(前略)かねて貴下が労働運動のために渾身の熱血をそそがれつつあることは承知罷り在り候処今回二六新報の開催にかかる第一回大日本労働者大懇親会場にて御身分柄にもかかわらず、奮って労働者総代となられ、一場の演説を試みられる旨、新聞紙上にて承知仕り、不肖後輩の実に感激措く能わざる処に御座候。弊社々員らも平素労働問題について微力をはからず、極力尽瘁せんと存居り候、二六社の企てを聞き、日本国中最小最若年の新聞たるを顧りみず、奮って該社の企画を当地に襲用して、いささか平素懐胞の一端をもらさんと存じ、五月五日を期して「函館労働者大懇親会」を企て申候。ついては貴下には該問題に対し他年の御懐胞もあり、且つ御議論も有之事に候得ば、何卒後進等の微衷を諒とせられ、御意見御垂教なし下され度く、玄に唐突ながら願上奉り候。取敢右御願まで。
       四月五日              北日本新聞社
 片山潜先生 硯下

 
 「函館労働者懇親会」は東京での集会成功の報に接し企画されたもので、集会まで1か月と日数が少ないにもかかわらず、鵜飼らの奮闘によりこの集会には5000名の労働者・市民が参加した。そして函館集会においても東京集会と同内容の次の5か条の決議を行った。
 
一、政府は吾等労働者すなわち鉄工、木工、石工、木挽、左官、機関手、活版印刷、石盤工、船大工、人力挽、馭者車掌、水夫、火夫、荷揚仲士、鉱夫、小作人、理髪師、消防夫等、すべての労働を為す者の権利と利益を保護するため、適当なる法律を制定すべし。
二、政府は幼年、婦女子労働者を保護するために充分なる法令を設くべし。
三、我国の工業を発達せしむるためには労働者教育を盛にするの必要を認む。
四、一般労働者が自己の利益を保護せんとするには勢い政治上の権利、すなわち選挙権得ざるべからずと信ず。
五、毎年四月三日、日本労働者大懇親会を開くべし。

 
 「函館労働者懇親会」が成功した背景として当時の労働者の状態に触れておく必要があろう。当時の函館の労働者の一面を示すものとして「函館の労働者」と題する論評記事を紹介しておきたい(明治34年9月4日付「北海朝日新聞」)。これによれば全国的な傾向として長時間労働や牛馬を使用するのと同様の苛酷な労働が労働者に強制されており、これが引き金となって「同盟罷工」や「社会党」結成の要因になっており、「労働者保護の問題」に真剣に取り組むことが社会安定の上からも必要であると「労働立法」の緊急性を訴えている。そして、函館においては「函館山築城部の石割工事に従事して居る其日暮しの哀れなる労働者等幾十名は去月末に至るも、賃金を得る能はず、請負人等に如何なる掛合をなすとも埒明かざるを以て、警衛へ訴え出た」と述べ、この問題の所在は労働者を雇用する「工事の引受者」「下受」の受負人らの「傍若無人」ぶりにあるとして、彼らへの「厳重の処断」を要求している。この頃の無権利状態に置かれていた、特に最下層労働者の実態をしめす記述である。
 また、翌明治35年3月9日付「北海朝日新聞」には「労働社会と函館市場」と題する記事がある。これによれば北海道の入り口として近年移民が増加しその為に貨物の集散市場として発達してきた函館において、人夫としてそこで働く労働者が激増しているが、不景気が彼らの仕事を奪い「この界隈の労働者は其生活の程度に於て窮民的境遇に陥没」していると嘆いている。