函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第13章 社会・文化諸相の光と影

第2節 マス・メディアと活字文化

2 明治2、30年代の函館の新聞事情

 一方函館新聞の北溟社社長伊藤鋳之助は、老齢を理由にこの変革期の30年に新聞事業を平田文右衛門・馬場民則らへ譲り、翌年には印刷業も養子伊藤力松に譲り一線を去った。
 新聞事業を譲り受け函館新聞の社長となった平田は、31年5月、題号を「函館毎日新聞」と改題、社名も函館毎日新聞社とし、6面の北海新聞に対抗したのか紙面数を4面から8面へと大改良した「函館毎日新聞」の創刊号を、5月22日発刊した(5月15日付「北毎」広告)。定価は月極め35銭。またこの大改良にあたり主筆に斎藤和太郎を、営業部支配人に吉岡憲を入社させた。斎藤は東京専門学校(のちの早稲田大学)の卒業で、静岡大務新聞の主筆などを経験、のち成田鉄道の専務となった人物(前掲『関係者略伝』)で、主筆斎藤について伊藤力松は「編集には現在成田鉄道の専務長である斎藤和太郎君が、主筆として創刊当初の宣言に則り、飽くまで不偏不党厳正中立に立脚し、区民の康福を増進すべく縦横に論じ去り、論じ来った態度は、実に一般の視聴をして側だたしめた概がありました」と回想している(「創刊より改題まで」『函館毎日新聞』大正10年10月10日~12日連載)。
 34年平田は死去、後任の社長には営業支配人の吉岡憲が就任した。吉岡はイギリス領事館書記を経て函館船渠会社に入社、まもなく函館毎日新聞社に入った人物で「性温厚にして高潔の士」であった(『北海道人名辞書』)。なお30年代の函館毎日新聞の主筆は斎藤和太郎、河合信水、久津見蕨村、工藤忠平らがあたっていたということである(「本社の沿革大要」大正10年10月10日付『函館毎日新聞』)。

「函館毎日新聞」と社屋


「函館毎日新聞」と社屋