函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第13章 社会・文化諸相の光と影

第2節 マス・メディアと活字文化

2 明治2、30年代の函館の新聞事情


「北海」創刊号

 
 自由民権運動、国会開設請願運動などの全国的な政治運動の広がりの中で函館新聞1紙独占の状態であった北海道の新聞界にも変化が生じてきた。国会開設の時期に備えて北海道人民も見識を高めなければならないとして20年1月札幌で「北海新聞」が誕生、その年10月同紙の経営を委託された阿部宇之八は「北海道毎日新聞」と改題、道内では函館新聞に次ぐ日刊紙となった。宇之八は社長箕浦勝人、主幹加藤政之助の立憲改進党の新聞「大阪新報」の記者として活躍、同紙廃刊後は「大阪毎日新聞」「郵便報知新聞」などでも筆を奮っていた人物で、充分な記者歴と編集者としての実力も備えていた(前掲『民権史料集』)。社員には「大阪新報」や「郵便報知新聞」時代の同僚である熊田宗次郎や久松義典らがいた。
 函館でも区会開設運動や官有物払い下げ問題など函館にとどまらない広域な政治活動が活発になってくると、創刊時の方針を厳守・固執している改良・進歩のない函館新聞では物足りず、時代の流れに相応し主張のある新しい新聞の発刊が活動の中心的立場にあった人々によって企画された。企画の中心となった人物は和田元右衛門、田村力三郎、工藤弥兵衛、林宇三郎らで、合資会社巴港社を組織、和田が社長に就任(同年8月退社)し、22年5月11日「北海」第1号を発刊した。発行所は巴港社(弁天町53)、日刊紙で1部1銭2厘。紙面は先発の函館新聞より大きく現在の日刊紙版で、1面5段組で4面、紙面構成は1面最上段に横書きで題字″北海″が記され(23年から字数増加のため縦書き右寄せになる)、その下には論説(23年から「社説」と明記)・雑報、2面は電報・雑報・小説(23年4月から2面トップに″短評″と題した時評が始まる)、3面は雑報・寄書・商況、4面が広告となっていた。創刊時の編集人は佐藤慎策、主筆は小野如水、印刷は元弥生小学校の教員で印刷業を営んでいた田村力三郎が担当した。
 創刊号の「発刊の趣旨及将来の目的」には「新聞紙の効用は社会の現状を写し出すにあることなれは、常に世の進歩と並行両立せさる可らさるは勿論のこと…近時世運の上進するに従い、新聞紙の改良進歩せるは余輩の弁を竢たすして明白なるへし…然るに不幸にして我が函館に於ては新聞紙の進歩従来稍々之れと其趣異にして、嘗て北海道の開進と並行して改良せる進歩的の新聞紙なかりしは相違もなき事実なり、左れは余輩は常に之を遺憾に思ひしのみならす、実は堪へ難きほとの不便ありしなり…余輩か新聞紙を発行するの旨趣は別に特種の事情あるにあらす、只従来吾人か共に堪へがたき思ありし一の不便に外ならされは、今敢て之れか弁を費すを要せさる」とその発刊の主旨が書かれている。
 また「進歩的の新聞紙」北海が発刊された時の様子を、当時函館新聞の記者だった出戸栄松は「新を追うことはなべての常乗。とりわけ新しい物好きにかけては決してヒケを取らぬ函館。「北海」ができたら人心翕然(きょうぜん)として之れに向かい函館新聞は一たまりもなく圧倒されでもする様に思ったものもあったらしいが、因習の力も存外強い者で、予想した程の影響もなく只函館の人が二種の新聞を読むようになったに過ぎなかった。」(前載「憶記録」)と回想している。市中には穏健な函館新聞と過激な北海の2紙が共存したのである。