函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第13章 社会・文化諸相の光と影

第1節 公娼制度と函館の遊里

1 山ノ上遊里の誕生と公娼制度のはじまり

 
 表13-1遊女屋一覧と抱え遊女数
遊 女 屋 名遊女数
宮川屋与吉 *
東屋幸吉  *
中里屋久一郎*
小田屋善治 *
住吉屋政十郎*
広田屋丈吉 *
金子屋東三郎*
増屋定吉  *
小嶋屋栄三郎
菱屋たま
仲屋治右衛門
田中屋六太郎
大垣屋藤兵衛
北越屋さん
納屋孫右衛門
高田屋たま
新屋留吉
上田屋まさ
中嶋屋ひさ
伊勢屋徳右衛門
盛屋武八
佐藤屋久兵衛
玉屋和五郎
茂村屋定兵衛
甲屋長太夫
26
19
17
13
12
10
9
7
30
22
17
17
15
14
12
12
11
10
9
9
8
8
8
7
7
計 25 軒329

 「箱館新廓遊女屋細見一覧」より作成 *は世話人
 
 翌2月には町年寄へ「総門以外の門の左右には板塀を回す事」「郭内に異人(外国人)休息所一か所を設ける事」「冥加上納は以後免除する事」など売女渡世についての心得が口達され(『幕外』19-131)、山ノ上町遊女屋が集まっている1区画を板塀で囲い、入り口に大門を構た江戸吉原風の一大遊郭が開かれた(野史台『維新史料』)。箱館遊郭の誕生である。箱館新郭あるいは地名をとり山ノ上遊郭とも呼ばれた。翌安政6年には引手茶屋21軒の営業も許可され、遊女屋の行事からは料金規定をはじめ遊女屋仲間で決めた郭内規定証文や、異人休息所の異人水夫の取り扱い方や店先に掛ける外国文字の規定書作成の願書が提出されるなど徐々に遊郭は整備されていった(安政6年「願書并嘆願書」『函館市史』史料編1)。
 一方一向に減らない私娼に困った箱館奉行は、文久3(1863)年私娼をすべて山ノ上町遊女屋の人別に入れて管理を仲間内に一任し、彼女たちの営業を新設された鶴岡町の新築島内(現豊川町)においてのみ認めることとした(前掲「御触書写」)。こうして新築島にも遊里が形成されたのである。その後元治年間(1864~5)新築島居留地とすることになり、同島に遊女屋一同が火事の際の退去場として購入していた1区画の上地が命じられ、代替地として大森浜通の畑地約2万余坪(のちの蓬莱町)が与えられた(元治元年「地蔵町築地御用留」道文蔵)。結局居留地の話は見送られ、慶応から明治初年にかけこの島にも武蔵野楼、梅川楼などが建ち並び山ノ上町同様に賑わいを続けた。
 「元治二年箱館新廓遊女屋細見一覧」によると、幕末の山ノ上町遊里遊女屋25軒、異人揚屋1軒、会所・見番各1、遊女329人、引手茶屋21軒、男芸者5人、女芸者113人となっている。それぞれの遊女屋の規模は表13-1のとおりである。