函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第10章 学校教育の発生と展開

第3節 中等教育と女子教育

4 女子中等教育と女学校

 女学校という名称が、女子の教育の場という漠然とした意味から、女子の中等教育機関の名称として用いられるようになったのは、明治13年の「教育令」によって小学校以外での男女別学が定められてからで、15年に東京師範学校付属高等女学校が開校し全国のモデルとなった。さらに学校制度に関する規定の中で、この高等女学校が女子中等教育機関として明確に規定されたのは24年12月の「中学校令」改正の時で、この時新たに「第十四条 高等女学校ハ女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ施ス所ニシテ尋常中学ノ種類トス」と追加、規定された。その後28年に「高等女学校規程」が定められ、具体的に学科目・修業年限(6年)・入学資格(4年の尋常小学校卒業)などが規定され、32年に「高等女学校令」が公布されて、女学校は初めて女子中等教育機関として独立の学校令を持ち、整備されることとなった。
  このように女子中等教育への対応が遅れていた明治初期、4年に津田ウメをはじめ5名の女子をアメリカに留学させたり、あるいは東京の仮学校内に女学校を併設し、12~16歳の女子を官費で就学させるなどした黒田開拓次官の女子教育への関心は注目に価する。5年に開校した仮学校内女学校には、函館から官吏の子女では中主典斉藤英俊の長女栄(15歳)、次女春(13歳)、権少主典中山克忠の妹諒(13歳)、等外2等付属松川直亮の妹安(13歳)、民間からは願乗寺法恵(堀川乗経)の長女登祢(13歳)、商人丸山篤兵衛の娘政(10歳)の6名が入学している(「開公」5733)。この女学校は、8年に仮学校とともに札幌に移転、札幌女学校となり、翌9年廃止となった。