函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第10章 学校教育の発生と展開

第1節 近代学校教育のはじまり

3 十二年大火後の小学校再興と私立小学校

 大火を切っ掛けに街区改正に着手した開拓使は、焼失した神社や学校の移転を民選の街区改正委員へ下問した。委員会は学校の移転ついて「内澗学校は旧八幡社地へ、松蔭学校は旧能量寺跡へ、常盤学校は旧神明社地へ移転、女学校は従来の地所と決定」(13年1月27日付「函新」)と答申、社寺の跡地への学校の再興を提言した。しかし、商業地域として最善の神社地をすべて学校用地へ転化することには問題があったのか、あるいは経費の面から3校を復興するのが無理だったのか、新築学校は3校に分割せずに1校に統一することになり、東本願寺と称名寺の跡地の一部(現弥生小学校付近)へ631坪、20教室をもつ大規模な学校新築の「新築願」が、13年3月、区長から函館支庁へ提出された(明治14年「郡区上申」道文蔵)。建築資金は学校新築資金のみで全てをまかなうことができず、函館区は諸会社・銀行へ呼び掛け、7740円の寄付金を集めて新築資金にあてることにした(明治16年「区会議事録」、『北海道学事新報』13号)。
 6月には石井弥三郎に建築請負が決まり、同年8、9月頃完成予定で木材の切り組みが始まった(明治13年「公立富岡学校建築書類」道文蔵、明治14年「区会議事録」)が、東本願寺の移転がスムーズに進まず、着工は翌14年にずれ込んだ。物価の高騰や子供たちの放置による学事の後退など、これ以上着工を延期できない函館区は、予定地に接続した山側の私有地を新たに購入し、14年6月、ようやく着工へこぎつけたが、落成間近の11月29日、失火により新築校舎は焼失、再び公立小学校の開校は延期となったのである。

大火後に新築・開校した公立弥生小学校

 
 しかし常野正義・渡辺熊四郎・今井市右衛門・平塚時蔵・平田兵五郎・伊藤鋳之助の再築有志発起人が941人から集めた寄付金5380円5銭(前掲『北海道学事新報』)と前回の寄付金の残額を合わせた″天神町建築学校費″をもとに、規模を20教室から14教室へと縮小して学校の再築を実現、ついに翌15年4月9日入学式を挙行した。校名は西側の坂名にちなみ「弥生学校」とした。収容児童数は500名で、焼失した松蔭・内澗・常盤各校の子供たちを主に収容した。なお渡辺・今井・平田・平塚の4名はこの公益への尽力が認められ、15年9月藍綬褒章が贈られた。
 その後同じ年の10月弥生小学校新設資金の残金を元に函館公立女学校(小学校)を元町に開校、公立小学校の女子の一部を移した。こうして再び函館の学校教育が開始されたのである。開拓使は廃使され、3県分治の函館県の時代になっていた。