函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第10章 学校教育の発生と展開

第1節 近代学校教育のはじまり

2 「学制」の公布と小学校の開校

 会所学校が開校して2か月後の8年6月、学務世話係から函館支庁の学務係あてに学校開設についての願書が提出された(自明治7年至同10年「学事関係書類」道文蔵)。それによると会所学校の収容児童はすでに満員となり就学希望者約250名ほどが足止めされており、「一日教育欠ケハ即一日ノ損ヲ増ス実ニ痛心」に至り、民間と協議し「興学ノ儀」に決した。校舎新築費は寄付金で、学校の経費は富豪の者が多く集まっている第2大区に「割合出金」してもらうが、その出金の度を越える時は官費援助をお願いしたいというものだった。民間のこの願い出を受け、函館支庁は早速(1)校舎は元町の官地内に新築し校名を元町学校とする、(2)新築費用は寄付金で全てを賄い、学校年費(概算で1900円)の3分の2は第2大区中から出金、残り3分の1は当分の内は官費で援助したいという意見を添え、8年7月、長官あてに公立学校設立についての伺いを提出した。
 しかしなかなか認可されず、函館支庁は「人民ノ情願切迫」しているとして、裁可を得ずに衰退傾向にあった官立松蔭学校を元町へ移し、その跡に公立小学校を開校することにした(「開公」5844)。こうして翌9年1月29日には「二月十日松蔭学校開業」の旨が布達され、函館で初めての公立小学校が開校することになった。松蔭学校は会所学校と同一の教則で小学科目を教授、1クラス30人で男子4・女子1クラスの入学を許し、教員は函館支庁の官員から派遣された。生徒は第2大区の子供が優先で、空きがある時は他区からの入学も認められた(明治9年「函館支庁日誌」道文蔵)。なおこの公立学校開校の件は、9年4月に長官あてに再上申、追認されている(「開公」5844)。
 松蔭学校開校が切っ掛けとなって官吏・富豪らからの寄付も多くなり、函館支庁は8年10月「中小学寄付金貸出及出納仮規則」を制定し、寄付金を中小学設立の費用にのみ充てるものとして管理した(明治8年「部下布達達録」道文蔵)。それでも学校新設費用は不足の状態だった。この状況をみた学務世話係の杉浦嘉七は、9年8月、内澗町51の私宅と土蔵を地代7年間無料で校舎に提供したいと申し出た。戸長らは早速概算書を添付し小学校(内澗学校)開校認可の件を願い出た(明治9年「取裁録」道文蔵)。同概算書によると、生徒のテーブル・椅子など新設のための一時費のみを官から援助してもらい、ほかの教員給料・手当て・その他一切の年額費用は町会所予備金利子収入・寄付金・戸賦金・授業料などで賄うとなっている。松蔭学校も同じ公立とはいいながら年額の3分の1が官費依存だったことを考えると、内澗学校はより基本に近い公立学校ということができる。こうして内澗学校は10年1月13日開校した。なお内澗学校の収容児童数は、松蔭学校同様男子約120人女子30人の計150人ほどで、入学優先順位は戸賦金を納める大区・小区が優先で、余地があったら他の各区からとなっていた(明治9年「函館支庁日誌」道文蔵)。
 その後公立小学校の開校が続き11年2月に台町(現船見町)に常盤学校、住吉町に住吉学校がともに民家を借用して開校、さらに7月には初めての新築校舎の宝学校が開校した。また翌12年7月には付属小学校・松蔭学校・内澗学校の女子を移し、会所学校跡に初めての女子小学校の第一公立女学校も開校した。
 

松蔭学校


内澗学校


常磐学校


第一公立女学校

開校が相次いだ公立小学校 (北大図書館北方資料室蔵)