函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第9章 産業基盤の整備と漁業基地の確立

第4節 露領漁業の進展

6 ラッコ・オットセイ猟業


猟獲したオットセイの陸揚風景 『膃肭獣猟業沿革及其将来』より

 
 ところで、我が国のラッコ・オットセイ猟であるが、寛成12(1800)年淡路出身の高田屋嘉兵衛が、場所請負人として千島のエトロフ島に漁場を開き、現地の人々を使い鮭鱒漁業とともにラッコの捕獲を始めたのが最初のようである。その後、享和年間(1801~1803)松前福山の栖原小右衛門、伊達林右衛門らが、高田屋嘉兵衛の漁場を譲り受けラッコ猟を続けている。ラッコ皮は、当時「狩物」と称して場所請負人から松前藩に上納し、藩はその報奨として玄米1升定価永56文を払い、これを長崎に送り清国人と貿易していた。また慶応年間(1865~1867)には、ロシアが、ウルップ島にアラスカ原住民を移住させ、ラッコ猟を盛大に行わせていたといわれている。
 その後、明治2年北海道開拓使が設置されたが、開拓使はエトロフ島に出張所を設けて外国密猟船の取締に当たる一方、現地の人々にラッコ猟を認め、ラッコ皮の買い上げは旧藩以来の慣行を踏襲した。しかし、同6年になって、開拓使は、現地の人々を雇いラッコ猟を官営事業として行うことにした。
 そして、同8年千島樺太交換条約が締結後、千島列島全域が我が国の領土に帰属したことにより、翌9年「日本帝国所轄たる北海道及び近傍諸島沿海諸猟規則」(太政官布告)を公布して「北海道諸国諸島岸上より発する弾丸の及達する距離内」における外国船舶によるラッコ猟を禁止すると同時に、艦船を派遣して外国猟船に対する取締を強化して密猟の防止に努めた。しかし、その効果は全くあがらなかったようである。
 これらの外国の密猟船は、4隻のボートを搭載し、外人4~5名の外日本人水夫15~6名が乗り組み、猟場に到着すると、ボートを降ろし獲物を追跡して銃獲した。この時期、千島列島海域における外国猟船が捕獲したオットセイの頭数は多大であり、例えば、イギリスの狩猟船船長スノーによれば、1872(明治5)年~1878(同11)年までの7年間に、エトロフ島のみで8000頭以上に達したという(H.J.スノー『千島列島黎明記』)。
 明治15年、開拓使が廃止され、ラッコ・オットセイ猟の所管は農商務省に移管されたが、明治17年、ラッコ・オットセイ猟の官営事業が廃止され(太政官布告第16号)、これ以後「農商務省の特許を得るに非ざれば北海道においてラッコ・オットセイ猟の猟獲を為すべからず」として、特許を得たものに、北海道庁の定めた猟獲期間と猟場区域内において、ラッコ・オットセイ猟を認めることとした。これは、我が国猟船を進出させることによって、外国猟船を排除しようとすることを目的にしたものであったが、この後、オットセイ猟の特許を願いでる者はなく、千島列島周辺海域における外国猟船の跳梁を許すことになった。