函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第9章 産業基盤の整備と漁業基地の確立

第2節 諸工業の発展

2 その他の諸工業の動向

生産財工業

 表9-32 造船・機械業の推移
年 次
造船・機械
明治33

34

35

36

37

38
3
123,703
5
183,264
5
191,917
4
174,276
6
244,047
13
406,354

 『北海道庁統計書』ならびに『北海道庁勧業年報』より作成
 上段は工場数、下段は製造価額(円)
 
 鋳造あるいは鍛冶のいわゆる鉄工場は後期末には60余軒は存在したといわれるが、その全貌を知る史料が乏しいので、38年の『道庁統計書』産業類別の造船機械の項目に掲載されている工場より造船所を除き、創立年次順に列挙すると表9-32の通りである。なお、33年以降の造船・機械業の工場数・製造額の推移を表9-31に示した。
 また、表9-31に記載されていないが、明治30年、東川町に星野熊五郎、尚次が開設した星野鋳物工場がある。建築金物、機械鋳物の製造をしているが、34年に岐阜県から鋳物師村瀬定次郎が入社した後は、生型により家庭金物を製造した。37、8年には陸軍より山砲の弾丸の大量発注があった。そし有江鉄工場に続いて、38年から古武井や道内の硫黄鉱山へ納入する硫黄釜の製造をはじめている。5.5馬力の蒸気機関を1基備え、男子職工6人、徒弟8人を使用していた。
 上述の星野熊五郎は越後長岡の藩御用鋳物師の出身で明治15年に父が函館へ移住したのであるが、有江鉄工場の有江金太郎(安政5年・金沢市で出生)が、各地で鋳物技術を研究習得の後、この長岡の星野和式鋳物工場で技術教師をしていたという経緯がある(富岡由夫「函館機械工業史」『函館工業高等専門学校紀要』合本・1982)。当時の長岡の酒類醸造家で使用されていた宇都宮式改良かまどを見て、これを魚粕用かまどとして北海道に普及させたいと考えて、有江は明治17年に来函した。そして、18年3月に青柳町で職人2人を使用して鋳物製造をはじめる。しかし、需要がなく工場閉鎖寸前の悲境に立つが、その技倆を認めた函館県勧業課より魚粕製造かまど、魚粕圧搾機の試作の依頼があり、19年より21年まで道内各地の需要にこたえて製造している。20年には地蔵町に移転し、有江商店として諸金物の販売をはじめ、25年に東川町に工場を建築した。そして、34年頃には尻岸内古武井硫黄鉱山向けの硫黄精練釜および付属品の製造をはじめて大いに業績をあげ、工場を増設している。蒸気機関5馬力1基、溶鉱炉(富岡由夫前掲書によると、銑鉄の溶解に用いる溶銑炉をいう)2本、起重機3個で、職工は5人のほか徒弟雑夫が7人であった。37年、有江金太郎は商業会議所の議員となったが、慈善家としても著名であった。
 真砂町の高田鉄工場は蒸気機関10馬力1基のほか、旋盤などを備え工場および船舶の汽機汽缶の製造を主とし、その他機械器具の新製修繕もしたが、鋳物は他の工場に製作させた。また、豊川町の池田鍛冶工場は安政初年の創業でよろず鉄物製造を営み、函館同業者の開祖と称せられていた。なお、東雲町の本間銅器製造所は改良澱粉器械製造の元祖といわれ、区内の澱粉製造業者はこれを使用していた。
 これら星野、有江、高田などの鉄工場に籍をおいていた技術者たちが次期の函館鉄工業界を背負ってゆくのである。
 なお、以上の造船所、鉄工場の材料である鉄物および地金類は東京、横浜、大阪等より移入しているが、その金額は30年代に急増して、20~30万円におよんでいる。