函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第9章 産業基盤の整備と漁業基地の確立

第1節 諸工業のはじまり

5 市中の諸製造業

 
 表9-10 金子利吉の売上高
年次
数量
金額
明治 9
13
14
15
16

瓦 44,478枚
瓦 15万個   
瓦 13万個   
瓦 14万個   
瓦 15万個   
煉化石 19万本

1,415
6,000
6,243
5,601
5,900
3,196

 『函館支庁統計概表』『函館県統計書』より作成
 
 志海苔で発見された古銭入りの珠洲甕の産地である能登珠洲郡飯塚村から、弘化4(1846)年に渡道した金子利吉は茂辺地で瓦焼きをはじめるが、その辺の土が尽きてから亀田村字船場野に赤色の粘土を発見して瓦焼きを続ける。明治初年は瓦の需要も少なく、年に530~540円の揚り高であった。その後、市中の家屋改良が進み、9年には瓦の年商が1415円となる。そして、12年の大火のあとの需要急増に対応した様子が13年6月29日の「函館新聞」の広告で知られる。「……陸続御注文不堪奉謝候付テハ各府県下ヨリ輸入瓦トハ異ニシ余製造瓦ハ良製ナルハ諸君遍ク知ル所ニシテ……御愛顧ニ随ヒ更ニ原価ヲ減ス……」とあるように、それまでの定価を下げて販売しているが、売上高の増加は表9-10のようである。
 しかも、14年2月の「函館新聞」の広告では、「…昨冬ノ如キハ多数御注文ノ折柄一時諸君ノ御需用ニ欠キ候義甚遺憾ニ奉存候因テ此際一層勉励シ製造所並器具等増殖シ諸君ノ御便利ヲ謀ラント欲ス……」と設備の増強をしている。この結果、15年2月14日の「函館新聞」によると、「逐年当港にて瓦を使用するの多きに至ること殊に昔は能登辺より輸入せしが今は能登の輸入品よりか却て同氏方の製造宜敷と価の廉なるを以て殆んと能登の輸入品を使用するものなく皆同氏製を用るので一昨年などは金一万円もあがり……」、このような活況を呈したわけである。14年の売上高対利益率は約36パーセントに達している。そして、冬は土が凍るため焼くことができず、夏のみ稼働で能登より傭う職人は夏稼ぎが終わると帰国している。『函館市史』統計史料編によっても、15年から瓦の移入がなくなっている。
 このほか、利吉は銭亀沢村の白土を泑薬とし、大森浜の黒土による着色で煎茶茶碗、花瓶、かめ、植木鉢、燈籠などを焼き、博覧会に出品して再々受賞している。また、石川県出身の鉄工業者有江金太郎と同じく慈善篤行家として有名であった。
 金子利吉に少しおくれて、慶応2(1866)年、平一が同じく亀田村大川通りで瓦・煉化石の製造をはじめるが、その製造額は14~16年頃、5000~6000円であった。
 高砂町にあった官営の函館製革所は14年に小川長之助に貸下げられるが、長之助は安政5(1858)年に末広町で袋物商を開業し、明治7年にはじめて毛皮商を開いた。牛皮、馬皮および毛皮の製造高を表9-11でみると、16年から収入金は増加するが、17年に建物が焼失したので土地は長之助に払下げられ、新たに工場を建設して事業を継続する。19年の「統計書類」によると「製革所ハ敢テ損失ヲ蒙ル程ニハアラザルモ、資本極メテ寡少故ニ其製出額モ亦多カラズ」と記載されている。
 その他、明治12年に中野平吉が恵比寿町で硝子製造をはじめ、23年に松風町で工場を新築している。また、尺度・斗量・権衡製作所が14年には曙町で、15年からは合併して汐見町で製造しているが、その状況は表9-12のとおりである(各製造業の記述において『殖民公報』の該当業種を参照した)。
 
 表9-11 函館製革所の状況
年次
製造高
収入金
経費

明治14
15
16

17
18
19
20
   2,759
   1,549
牛皮 1,250
毛皮 1,300
焼失

1,963
3,841
9,375
915

1,112
1,789
1,915

2,215

 『函館支庁統計概表』『函館県統計書』
 河野文庫・明治19年「統計書類」より作成
 16年は職工男子12人
 
 表9-12 尺度・斗量・権衡製造状況
年次
種別
尺度
斗量
権衡
持主名
佐久間市五郎
北原勝助
山本清之助
14年


製造高
収入金
費金
10,526本
730円
657円
2,879個
756円
707円
2,882挺
4,506円
4,211円
15年

製造高
代価
3,878本
451円
3,640個
550円
2,816挺
2,648円
16年

製造高
代価
1,634本
4,420個
1,637挺
3製作所合計………2,416円

 『函館支庁統計概表』『函館県統計書』より作成