函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第9章 産業基盤の整備と漁業基地の確立

第1節 諸工業のはじまり

4 採氷業と中川嘉兵衛

 明治11年中川の氷専売期間が満了したことから、函館市中あるいは近郊で採氷業を試みるものが続出した。もっともこれより先には東京や大阪の商人が、道内各所で採氷を計画したり、また茂辺地では函館の商人白鳥衡平、大矢佐市らが共同事業で開始し、専売期間中は中川に販売を委ねたという事例もあった。11年以降の採氷業者としては谷地頭で浅田清次郎、大縄町で竹水徳太郎、東川町での小沼庄助、他に料理商で自用を目的とした木村留吉や堀川徳七などの例をあげることができる。それらは品質的には五稜郭産の氷に劣ってはいたが、そのなかでも小沼庄助の場合はやや業績をあげている。小沼は恵比須町で牛肉商を経営するかたわら14年1月に採氷営業の出願をして、願乗寺川の支流である水車川から水を引いて自己の私有地に採氷池を作った。この大森浜番外地(後に東川町274番地となる)での事業も始めの1、2年は泥砂の混入や結氷の状態が悪く市中で細々と販売する程度であったが、16年には200トンの採氷に成功した。そして翌17年には140トンの氷を名古屋に出荷するまでになった(明治17年「願伺届綴」道文蔵)。この地での事業は亀田川の流末切り替え工事によって願乗寺川が廃される20年まで継続された。
 他方、本州各地にも、11年ころから製氷業者が続出し、当初は粗悪品を販売するものまで現れた。このため内務省は同年9月に営業者に検査を義務づける布達を出し、さらに同11月に「氷製造人並販売人取締規則」を公布し、取締の強化にあたるほどであった。ところで本州方面の主な産地は東京の玉川、栃木の佐野と今市の両地方などであったが、16年には東京で機械製造による人造氷の会社も登場した。しかし、函館産の氷が断然優位を占めていたようで、19年7月25日付の「函館新聞」には東京での氷相場が100ポンドにつき函館産1円、栃木産80銭、玉川産および人造氷60銭と品質に応じて価格に優劣の差があり、函館氷がこれらのなかで最も高価であるにもかかわらず消費量が多いのも融解度が低くかえって徳用であると報道している。
 函館氷は函館から本州市場へむけての移出品として重要な位置を占めるようになったが、他方函館での需要はどのようになっていったのであろうか。13年8月22日の「函館新聞」には「今夏は氷の売れる事格別に多いので、氷商中川方の氷も過半売れ切れたゆえに、余は貯蔵置きて病人等の需用其他小売を除くの外卸し売は一切昨日より止めたりというが、今年の暑気は昨年に比すれば左程厳しくもあらず…沢山に売れるのは本港も近年余程開けて来たゆえ…」と市中消費の伸びを伝えている。函館における氷需要は10年ころから顕著となり、当初の年間消費量は10~20トン程度であったものが、経済状況の好化に伴い生活水準の向上などにより消費量も増していった。同業者が増加していたが、市中における販売は中川のものが大部分を占めていた。彼は豊川町の氷室に店舗を併設し、市中への卸・小売りを兼業していたが徐々に販売店を拡充していった。16年西川町の茶商小西清吉ら3軒の商店を出張店として氷の取扱をさせ、また粗悪品が出回っているということで、前述したように勧業博覧会で受賞した賞碑の龍紋模様の看板を各店頭に掲げ、五稜郭産氷の品質の優れていることの宣伝に努めた。翌17年には氷の売り捌きを希望する商店も増えて、それらを出張店としたため販売所は13か所にも及んだ。
 ところで明治11年以降官による検査が行われるようになった。それは前に述べたように中央で粗悪品が出回ったために内務省が検査を義務づけたためであるが、開拓使ではこの布達を受けてただちに五稜郭の水質検査を東京司薬場に依頼し、高い評価を受けている(明治12年「水道建築及償却法書類」道文蔵)。その翌年から採氷期には函館病院の医員が氷質の検査を行い、検査に合格すると検査済証券を発行した。これは消費地においては品質保証の役割も果たした。こういった動きが出てきたのも、粗悪品の登場に対処するという意味の他に氷が食品としても広範に消費されるようになり、衛生面での行政の思想が深まってきたということとも無縁ではなかろう。
 また採氷の作業には多くの人夫が従事した。いま11年の例でみると、伐氷時は1日に約100人、氷室までの運送には1日に800人で、1人当たりの賃金は1日に付き24銭であった(11年2月12日付「函新」)。また翌年の「函館新聞」(12年2月4日)には「函館ハ従来冬分の中ハ只遊んで暮す外別に仕事も無ければ貧民ハ実に困難であったが、五稜郭にて製氷の業を開いてより今年まで既に十ヶ年余の間ハ、年々冬季に至れば夥多の人夫を傭ひ氷を切出すに費用する賃銭は一ヶ年凡そ五千円程もある故、貧民も多少の潤いを得以前の難儀も見ざるに至れり…」と報じているが、港湾都市としての性格が強い函館は冬期間は出入船舶が減少し、それに伴い港湾荷役およびそれに付随する業務も欠乏し、下層の民衆は失業状態に置かれがちであったので、この採氷業は冬期間に雇用の場を作るという役割を果たすとともに、中川の事業が順調に展開した背景には函館が労働力供給の市場であったことも見逃せない。