函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第8章 金融界の近代化と整備・発展

第2節 金融界の発展

2 三井銀行の撤退と日銀支店の設置

 日銀山本達雄営業局長は明治28年6月27日に日本橋倶楽部で開催された市中銀行東京支店懇談会での講演の中で、積極方針の1つとして「今般函館に支店、札幌に出張所を設けて貸出を開放する」(日本銀行保有資料「山本営業局長ノ演説」)と述べている。すでに明治28年6月22日、日銀は函館・札幌・根室の3出張所のうち、函館・根室の出張所を廃止する一方、函館に北海道支店を設置することを大蔵大臣に申請し、同25日に認可をえていたのである。すなわち、北海道は海岸線が数百里に及び、海産物を主要物産としているが、「其産出各々季節あるを以て、金融の繁閑常ならず金利の劇変を来すこと少からず、殊に其他北境に偏在するを以て……一朝事あれば頓に輸送の欠乏を免れず」、現に日清開戦当時には航路の途絶による貨物の停滞から代金の回収難に陥り、兌換銀行券の現送によりようやく金融の逼迫を回避するということがあった。(『日本銀行沿革史』第1輯第1巻)明治27年6月15日、第百十三国立銀行および第二十国立銀行・安田銀行・三井銀行・第三国立銀行各函館支店が連名で、日銀函館出張所においても手形割引業務を開始してほしい旨「陳情」を行ったのもそのためである(日本銀行保有資料「支店設立請願書類」)。
 日銀は「国家富源の一要部たる北海道の金融をして此の如く不便ならしむるは国家の不利亦甚だし」いので、この不便を救済するためには日銀支店を設置、時々の需要に応ずるほかないと認め、直ちに支店設置に着手することを望んでいた。なお27年6月21日函館商工会会頭からも支店開設の日銀総裁への請求が出されている。この時期における函館の経済状況がよく察知できるので、とりあげてみる。
 
   函館支店御設置之議ニ付申請
北海道金融ノ状況ハ従来ノ経験ニ依レハ第一漁業ノ季節ト収獲ノ豊凶ニ関シ而シテ内地金融ノ影響ヲ被ムルモノ亦少ナカラス其他種々ノ原因ニ依リテ変動ナキニアラスト雖トモ要スルニ本道ハ新開ノ地ニシテ従来都邑ノ開ケ人口ノ増加シタル割合ニ比スレハ資金ニ乏シク近来運輸交通ノ開クルニ從テ益々戸口ヲ増殖シ物産ヲ隆興シ猶将来起スヘキノ事業少ナカラス而シテ東北鉄道開通以来近県物産ノ当港ヲ経テ集散スルモノ最モ多キヲ加ヘ従テ当港ノ融通資金ハ益々巨額ヲ要スルニ至レリ殊ニ函館ハ本道ノ咽喉ニシテ商業ノ中心ヲ占ムルヲ以テ各銀行ハ各地ノ要港ヘ支店若クハ出張所ヲ置キ当港本店ト相応シテ融通ヲ謀リ水産家ハ当港ニ在リテ各漁業ノ仕入ヲ為シ物産商ハ当港ニ在リテ各産地ヨリ物産ノ買出ヲ為シ又米穀其他ノ需要品等ヲ輸送スル等当港ノ全道ニ関係スルコト最モ大ナルカユヘニ例年漁季ニ在リテハ金融ノ頻繁ナルコト多ク他方ニ見サル所ナリ
此ノ如ク全道ハ年ヲ追フテ進歩スルニモ係ハラス融通ノ金額ハ之ニ伴ハサルノ状勢アリ殊ニ近年内地金融緩慢ノ余勢ハ延ヒテ本道ニ及ホシ低利ノ結果ハ遂ニ融通資本ヲ土地家屋等ノ固定的財産ニ放下シタルモノ夥クス貨物ニ対シ貸出ヲナシタルモノ巨額ニ至リ遂ニ今日ノ逼迫ヲ醸生スルニ至レリ是等ノ状況ハ夙ニ貴下ノ達観セラルヽ所ナルヘシト雖トモ今ヤ本道開進ノ気運ニ向ヒ愈々商業ノ振興セントスルノ日ニ至リテ時々金融ノ逼迫ヲ感スルカ如キハ実ニ殖産興業ノ前途ヲ障害スルコト少ナカラサル義ト憂慮仕候貴行ハ幸ニ当港ニ御出張所ヲ設ケラレ居候義ナレハ此際一層御拡張ノ上御支店ヲ設置被為在候ハヽ啻ニ当港商業上ノ稗益ニ止マラサル義ト確信仕候依テ今般本会総会ノ決議ヲ以テ申請仕候 敬具
 明治二十七年六月二十一日
函館商工会                       
会頭 小川幸兵衛            
  日本銀行総裁 川田小一郎殿
(『函館商工会沿革誌』)   

 
 このような金融逼迫の解決を計るため、日銀支店の設置を要請したのであるが、その日銀からの回答は次のようである。
 
本月二十一日付御書面ヲ以テ貴港金融之状況及商業之模様等詳細御来示相成貴港ヘ本行支店設置之義懇々御請求ノ趣逐一了承至極御尤ノ義ト存候本行ニ於モ予テ貴港ノ金融ニハ厚ク注意致居候ニ付早晩支店設立ノ見込ニ有之其ノ計画モ略相立居候得共尚精細ノ調査ヲ要シ延テ今日ニ至リタル義ニ御座候然ルニ此頃来朝鮮事変ノ為メ俄ニ船舶ノ不足ヲ告ケ随テ貨物輻湊シ金融之道逼迫ノ赴承リ入候ニ付テハ更ニ一層苦慮致居候得共当方モ亦右事変ノ為同様ノ情况ニ有之此際急ニ貴港ヘ支店開設ノ運ヒニモ至リ難キ次第ニ御座候然ル処貴港ニハ元来三井、第三、第二十、第十三等ノ支店有之何レモ東京ニ本店若クハ支店ヲ有シ候ニ付是等在東京ノ本支店ニ向テ特ニ為替ノ便益ヲ与ヘ候ハヽ貴港ノ金融ヲ助成シ得ラルヘキハ必然ト思惟シ不取敢此方策ヲ取リ既ニ貴港及札幌出張所ヘ十分ノ資金ヲ回送シ為替ノ請求ニ応シ候様取計置候間目下ノ処ハ先ツ右ニテ御差支有之間敷ト存候勿論前陳ノ通リ到底時機ヲ斟酌シテ支店設置ノ見込ニ有之決シテ等閑ニ付セス候間其辺ハ宜敷御了承相成度候不取敢此段及御回答候也
 明治二十七年六月二十六日
日本銀行総裁 川田小一郎          
函館商工会会頭 小川幸兵衛殿
(同前)   

 
 しかし日清戦争中は「軍資供給の勤に忙はしき此に及ぶに遑あらず、已むを得ずして遷延した」といわれている(『日本銀行沿革史』第1輯第1巻)。事実、27年6月23日付の函館出張所長あて川田総裁の書簡を見ると「目下其出張所ニ於テ割引開始ノ義ハ難及詮議」(日本銀行保有資料「支店設立請願書類」)と記されており、日清戦争のため組織変更の暇もなかったことを示している。しかし、北海道の現状も捨て置き難く、幸い北海道の各銀行はおおむね東京に本店または支店を有していたので、日銀本店で貸出を行い、その資金を札幌もしくは函館出張所に送金して当面をしのぐことにしたのである(『日本銀行百年史』第1巻)。
 明けて28年の4月、日清講和条約が調印されるや、5月6日に上記5行は再び連名で本行に対し、鰊粕出荷期到来に伴う金融逼迫を慮って「逆為替」の取扱い開始方を請願した(日本銀行保有資料「支店設立請願書類」)。このような経緯のなかで日銀は、5月に講和条約が発効するや支店開設の準備に着手し、28年7月10日に北海道支店(函館区末広町1番地)が開業した。なお「逆為替」は明治31年4月以来、本店、大阪西部、北海道、名古屋の4支店ならびに小樽出張店において特に大蔵大臣の認可をえて取扱われてきたが、32年3月横線保証小切手法の制定で本行本支店出張所と当座勘定取引ある銀行は横線保証小切手を相互間に回付し送金をなしうることとなったので、32年6月30日限り取扱を廃止した。しかし北海道のような金融機関のまだ発達していない地方では、営業者が商品輸送の後往々資金回収の途に窮するものが少からずいるので漁猟季節に限りこの取扱を行うことができた。その後36年10月8日には農産物出廻季節における再割引手形にも適用した(「日本銀行沿革提要」『日本金融史資料』第10巻)。
 もっとも日銀としては、北海道の金融は繁閑常ならざるものがあったので「収支の見込定らず、営業上より言へば固より其の不利たるを免かれざる」も、「国家経営上已むを得ざる」ものと考えていた(明治28年『日本銀行営業報告』)。しかし、日本銀行北海道支店の設置に関する大蔵省の調査、大蔵省官房第3課添田寿一「日本銀行北海道支店ノ設立ニ関スル調査」(『明治財政史』第14巻)は「清国との貿易の如きは戦勝の結果に依り著しき盛況を見るべく、内外の商業将来益々進歩して愈々資本の不足を告ぐるに至る」と思われるので、日銀支店の設置は「北海道竝に東北地方の金融を調和し、事業の進歩発達を来たすに於て最も緊要の挙なり」と結論していた。ちなみに、北海道支店の開業に伴って同地市中金利は日歩2厘方低落したほか、金融の見通し難から売り急ぐ水産業者も少なくなるなど、支店設置の影響が直ちに現われたが(明治28年7月26日付「中外産業新報」)、同支店の収支も開業1年後の明治29年下期から黒字3309円97銭5厘を示すようになった(『日本銀行百年史』第1巻、「日本銀行半期報告」『日本金融史資料』第8巻)。