函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第8章 金融界の近代化と整備・発展

第1節 金融機関の創設

5 ブラキストン証券問題

 外務省は、イギリス公使へ申入書を送ってから、明治8年6月25日、寺島外務卿が直接折衝を始めた。その経過は、次のようであった。イギリス公使は、まずブラキストン証券を函館で発行前に知ったのはどういうわけかと疑念を示した。またブラキストンは、函館の地方官はすでにこれを知っていたはずだと言っている。あるいは、函館は紙幣が少いので、証券の発行を土地の者が希望してしたのではないか。さらにブラキストンが証券を発行してどうして差し支えがあるのか。ついで、これを製造するには若干の金額を要するのであって、注文したころ地方官へ申し立てた時に、禁止のことを言わなかったのは残念であると反論している(同前)。
 外務省は早速、事前に証券発行の申し立てがあったかどうか、開拓使に問い合わせたところ、開拓使は6月29日発の電信で、どこからも知らせはなく、表向きは知らぬ筈という含みのある返事をよこしている。外務省は直ちに、イギリス公使へブラキストンから事前に証券発行の申し立てはなかった旨を伝えた(同前)。
 一方ブラキストン側は、証券が明治8年春にドイツから送られて来たので、番号およびサインを記入して発行しはじめていたが、英公使パークスは、外務省との折衝の結果、「ブラキストン商会証券」の発行禁止、回収を函館イギリス領事に命じた。その結果について、イギリス公使は8月2日付で、去月23日まで31両(円)80銭を残したが、あとは引取ったことを回答してきた(同前)。
 前述したようにすでに6月には、大蔵省がブラキストン社証券の禁止布告発布を太政官へ上申していたが、その案文を一部訂正して8月4日次のとおり太政官布告が出された。
 
英商「ブレーキストン」社発行ノ証券通用禁止ノ件
第百弐拾号
 今般函館在留英国人ブラキストン商社ニ於テ我国内通用ノ証券製造致シ候趣右ハ我政府ニ於テ許可セシモノニ無之ニ付通用不相成候条決シテ取引致ス間敷此旨布告候事
但右証券ハ西洋紙ニシテ表面ニ此証券ヲ持参スル時ハ何時ニテモ可引換旨并ニ其社名及ヒ拾銭壱円等ノ文字ヲ日本西洋ノ両体ヲ以記載シ中央ニ日本船形ノ図有之裏面ハ番号ノミ有之候事
 明治八年八月四日
太政大臣 三条実美
(『日外』第八巻、明治八年『太政官日誌』)

 
 ところが、この布告について、8月9日イギリス公使から談判があり、外務省で寺島外務卿とが話し合った。それは、証券は双方話し合いの上で禁止することに決まり、すでに証券も回収済みであるにもかかわらず、そのことを明示していないということであった(『日外』第8巻)。
 その結果、対談中の約束通り、8月15日「ブラキストン商会証券」はすでに回収した旨の布告案を作成し、イギリス公使の了解のもとに、明治8年8月25日、第132号太政官布告をもって「先般箱館在留英国人ブラキストン商社ニ於テ我政府ノ許可無之我国内通行ノ証券製造致シ候趣ニ付右証券ハ取引致間敷旨本月第百二五号ヲ以布告候処今般我国在留英国公使ヘ右証券発行制停ノ義掛合ノ末同公使ヨリ箱館港在留英国領事ヘ相違シ同商社ニ於テ既ニ発行ノ分共総テ引取相也候趣ニ付此旨更ニ布告候事」との布告が再度出された(同前)。
 これで、「ブラキストン社証券」発行の件は終止符を打つことになった。以来外国人は、わが国においては政府の許可なくして紙幣・証券の類を発行できないことになった。ところが、反外国意識の強い得能紙幣頭は、さらに当時横浜で使用されていた外国銀行が発行していた証券の流通をも禁止しようとした。そこで太政官へ次のような議義を行った。
 
横浜港ニ於テ従来開業致候香港上海并ニチヤルトルマルケンタイル銀行支店ヨリ発行セル証券之義ハ該港内ニ流通スルコト歳月既ニ久シク、彼我人民共各自ノ信用ヲ以テ商業ノ際我カ通貨ト同視シ取引致候得共、元来右証券ノ義ハ我政府ニ於テ許可セシ者ニ無之、且右等銀行ノ義ハ我国ノ条例ニ従ヒ創立セシ者ニ無之候ヘハ固ヨリ官ノ検査ヲ経ル者ニ無之、因テ其証券発行ノ多寡身代ノ当否及ヒ実際営業ノ景況等ヲモ探知シ難ニ付或ハ証券兌換差支候様立至ラザルモ保証シ難ク、殊ニ近来欧米諸国ニ於テ銀行会社商会等破産鎖店ノ聞ヘモ不少、旁以テ不幸ニシテ一旦鎖店ニ及候事有之時ハ独証券所持ノモノ困難ニ陥ルノミナラス国家理財上ニ於テ幾分カ損害ヲ釀出候様可相成モ難測義ニ付速ニ予防ノ方法相立候義肝要ト存候。凡テ金券并ニ通用手形類発行禁止ノ義ハ国立銀行条例第二十二条第一節ニ於テ確乎タル明文モ有之候ヘハ断然停止候テモ可然哉ニ候ヘトモ今俄ニ之ヲ停止セシメ候ハヽ多少ノ苦情可有之ハ勿論、畢竟多年ノ営業既ニ一種ノ習慣ト相成自ラ彼我関渉ノ廉不少義ニ付兎角一朝夕ノ処置ニハ相成間敷、仍テ先ツ内国人民ヲシテ是等ノ趣意ヲ覚悟セシメ不慮ノ患ニ立至ラシメサル様予メ御告諭相成度、尤モ右証券ハ所謂「バンクノート」ナルモノニシテ此外切手即[チエツキ]ノ類有之、該港ノ我商人概シテ之ヲ横文ト称シ証券同様取引致居候ヘ共右[チエツキ]ナル者ハ予メ定額ノ金員ヲ印刷セス時々取引ノ際ニ臨ミ其高ヲ書込ミ必ス名宛アリテ振出モノニシテ自ラ「バンクノート」ト其性質ヲ異ニスルモノニモ有之、若右ヲ併セテ之ヲ取引セシメサル時ハ殆ント正金銀ノミニ相成却テ貿易上取引ノ便ヲ失シ可申、如何ナレハ我商人ヨリ払渡ス所ノ正金銀ハ其真贋ヲ不問授受ノ際外人漫リニ之ヲ排除スル者多ク又彼ヨリ払出候節ハ我商人検査ノ取扱ニ慣レサルヨリ徒ニ其手数時間ヲ費スノミナラス実ニ彼我商人ノ一大困難ヲ釀成スヘキハ必然ノ義ト存候間右「チエツキ」ノ類ハ是迄通取引為致置、専ラ前文ノ証券即チ「バンクノート」ノミヲ取引セシメサル様致度仍テ御布告案相添此段相伺候也
 明治八年十二月二十八日
大蔵卿 大隈重信
    太政大臣 三条実美殿
(飯田昇「ブラキストン証券事件と紙幣寮」『貨幣』二九〇号)

 
 太政官ではこれを受けて「伺之趣付箋之通開港場市場有之府懸ヘ其省ヨリ可相達事」と指令した。そこで大蔵省は明治9年3月14日番外を以て東京府、大阪府、神奈川県、兵庫県及び新潟県へ次のように達した。
 
従来諸開港場ニ於テ外国銀行ノ証券ヲ以テ通貨ト同様取引致候趣ノ処、我国内ニ於テ右証券発行ノ儀ハ固ヨリ我政府ノ許可セシ者ニ無之、且右銀行ノ儀ハ我国ノ条例ヲ遵奉シ官ノ検査ヲ経ル者ニ無之候ヘハ其証券ノ多寡、身代ノ当否等モ探知シ難キニ付、万一破産閉店等ニ至ル時売買上不測ノ損害ヲ免レン事ヲ慮リ自今以後ハ我政府発行ノ通用幣、国立銀行ノ洋銀券及締盟国現貨幣ヲ以テ取引候様注意可致此旨相達候事
(同前)

 ところが、これらの処置すなわちチェック(切手)を残し、証券(バンクノート)の取引を禁止するということは外国銀行側の反発を受け、第二国立銀行発行の洋銀券(為替会社時代に発行され、明治5年国立銀行条例発布後も特別に存置されたもので、当時横浜で貿易決済上重要な地位を占めていた)の受授を拒否する申合をした。
 このように当時の外国人相手の取引は容易ではなく、明治17年兌換銀行券条例の公布によってこの問題は漸く解決された(同前)。
 後日談として、明治9年10月函館で、ブラキストン証券を持って郵便切手を買いに来た外国人があったという報告が駅逓寮より大蔵省へ報告があったので調査したところ、ブラキストン商会と清国人との売買には、間々この証券の授受があったようである。日本人で使用する者はほとんどいなかったそうである。内澗町の美濃屋、幸町の明石屋などは、商売上止むをえずこの証券を受け取ることがあると、すぐブラキストン社へ持参して新紙幣と交換してもらっていたので、別に問題はなかったという(前掲『蝦夷地の中の日本』)。