函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第8章 金融界の近代化と整備・発展

第1節 金融機関の創設

2 開拓使兌換証券の発行

 政府は通貨制度の改革に手をこまねいていたわけでなく、慶応4年4月に画一純正な貨幣を新鋳することを議決し、海外への造幣機械の発注、造幣所の建設を行い、明治2年2月5日、太政官内に造幣局を新設している。先進諸国の幣制改革にたいする要求が新貨鋳造の動きを速めたといえるが、2年3月から政府は幣制改革の具体的検討を開始した(『日本銀行百年史』第1巻)。
 明治2年3月30日に会計官副知事を兼任することになった大隈重信と造幣判事の久世治作は、貨幣の形態を円形にし、これまでの単位である朱・分・両を廃止して10進法を採用することを建議した。反対論との論議の結果、両者の意見が通り、3年11月12日には「新貨幣単位及ヒ重量表」が太政官によって裁定された。本位貨幣として1円銀貨(香港ドルと同一量目)のほか、補助貨として50銭・20銭・10銭銀貨、10円・5円・2円半金貨および1銭・半銭銅貨を新たに鋳造することになった。これによってわが国は銀本位制度を採用することになった。
 ところが当時、理財に関する諸法則・国債・為替・貿易・貨幣鋳造の諸問題を調査研究するため、アメリカに派遣されていた大蔵少輔伊藤博文は、明治3年12月29日付をもって大蔵省に意見書を送り、世界の大勢から見て金本位制を採用するよう具申した。大蔵省は4年4月伺書を太政官に提出し、金本位制採用と銀貨は開港場のみに流通する「貿易銀」とするよう禀申した。政府もこの意見をいれて4年5月10日、太政官布告「新貨条例」を公布した。
 鋳貨制度統一の基礎を固めたこの条例は、主要な点をあげれば次のようである。
 
(1)新貨の呼称は、「円」を通貨の基本的単位とし、1円の100分の1を「銭」、1銭の10分の1を「厘」とする。
(2)金貨(20円・10円・5円・2円・1円)を本位貨とし、本位貨中1円金貨を本位の基本と定め、各金貨とも無制限に通用するものとする。
(3)銀貨(50銭・20銭・10銭・5銭)および銅貨(1銭・半銭・1厘)はすべて補助貨とし、銀貨の通用限度は10円、銅貨のそれは1円とする。
(4)新貨幣と在来の通用貨幣との交換比率は1円につき1両とする。
(5)当分の間、貿易上の便宜を図るため1円銀貨を製造して貿易銀となし、開港場において無限通用を認めるほか、一般の取引についても相互の話合で無制限通用力を有するものとしてよいことにする。
(6)貿易銀と本位金貨との比価は、当分、銀貨100円につき金貨101円とする(金銀法定比価1対16)。

 
 このように、実質的には金銀複本位制を採用したものであったというのが通説となっている。この条例は明治8年に「貨幣条例」と改称されたが明治30年10月の「貨幣法」の施行まで存続した(同前)。
 明治2年5月28日の布告で、太政官札は新貨幣と交換回収することになっていたが、財政難の政府には、4800万円の鋳貨を新たに製造して紙幣の回収する余裕はなく、新貨条例の制定にも2年も要した。しかも同条例制定後も新貨幣鋳造が円滑に進まなかったうえ、鋳造された新貨も増大する財政支出に充当され、政府紙幣の回収に十分振り当てることができなかった。政府が新紙幣の発行に踏み切った背景の1つはここにあった。
 この新貨幣の発行は、元来、当時横行していた金札偽造の弊害を除去することと、4年7月の廃藩置県に伴い旧藩札を回収して流通通貨の整理を図ることを目的としていたが、新貨幣の代わりに太政官札との引換えにも充当することにした。新貨幣が実際に発行されたのは明治5年4月が最初で、その発行総額は最終的には1億2138万円余に達した(同前)。
 さて開拓使兌換証券の償却は、10か年の期限後に開拓使が行い(大蔵省・開拓使約定書の第3条・第7条、また三井組に渡した発行額の2割(50万円)の場合は、同組が回収することになっていた(規定書の第4条)。もし開拓使が回収できない場合は、大蔵省は開拓使の経費定額金を押さえて償却を実行し、三井組が負担部分を回収できないときは、開拓使が三井組の財産を差押えて償却を執行することになっていた。
 しかし実際には、このような償却方法は種々の事情によって著しく変更しなければならなかった。その第一は、政府から開拓使へ新紙幣110万円を貸付したこと、および第二に、大蔵省で50銭以下の証券を新紙幣に交換したことである。
 第一の点は、明治5年6月、政府が新紙幣を開拓使に貸付すると、同年8月22日に大蔵省は開拓使とその償還の仕方を最初の約定書に追加した。それは前に所管人民に貸付した118万円の証券の代りとして110万円の新紙幣を発行する以上は、流通期間は明治4年より3か年限りとして、明治6年中にその貸付した証券の3分の1(36万余円)を取立て、他の3分の2(73万余円)は5か年限りで明治8年中に取立てることにした。
 第二点については、開拓使兌換証券および大蔵省兌換証券が流通してから1か年も経過しないうちに描改贋造が数多くみられるようになったので、両証券の1円以上3種のものにはその額面に何円という名称を加印して元通り流通させた。50銭以下の開拓使兌換証券はすべて新紙幣に交換することに決定し、50銭以下3種の証券130万円は10か年の期限をまたずに回収されることになった。実際には、政府が明治6年5月20日第169号布告および同年12月23日第415号布告で、50銭以下の証券の通用禁止は、同6年12月20日であること、ならびにその引換期限は翌7年2月28日限りであることを公布し、同8年12月に終了した。
 しかし第一点の証券36万円の方は、明治6年中に回収して大蔵省に納付することになっていたが、開拓使と同省とが協議して、証券金額に相当する貨物を代納し、回収は、大蔵省で負担することになり、8年12月に完結した。これはまったく回収方法が一変したということである。
 
 表8-1
種類
金額
発行高

新紙幣と交高
描改引揚及散失高
回収高計
2,500,000円

2,463,520
 36,480
2,500,000

 『明治財政史』第12巻、『北海道金融史』より作成
 
 そのほか、開拓使が自ら回収しなければならない金額として83万余円がある。そのうち73万余円(第一点で36万円とともにあげた金額)は明治8年中に、10万円は発行から10か年で回収することになっていた。だが、当時大蔵省は政府紙幣の統一を急いでいたので、太政官に禀申して裁可をえ、1円以上3種の証券も大蔵省が交換回収を担当することになった。当然約定書を再び改正追加した。開拓使は83万余円のうち73万余円は、明治8年中に、残額10万円は発行の年より10年後に、他の貨品または通貨をもって大蔵省へ納付することとなり、その後大蔵省は紙幣との交換を進め、明治9年4月に終了した。回収の結果は表8-1の通りである。