函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第7章 近代海運の発達と北方の拠点港

第4節 汽船主導の海運界

3 不定期航路と函館の船主

 表7-23は20、30年代の函館における汽船船主とその所有船の一覧である。20年当初では函館における汽船所有は前述した渡辺熊四郎、造船業者の辻松之丞ら数名でしかなかった(『新函館繁昌記』上篇)。ところが20年代のなかばには30隻前後、船主も20名前後を数えるまでになった。
 
 表7-23 函館定繋汽船一覧
明治26年
明治28年
明治36年
船主氏名
船名
登簿
噸数
船主住所・氏名
船名
登簿
噸数
船主氏名
船名
登簿
噸数
間半四郎
若松忠次郎
菅原治郎吉外4名
能登善吉




筑前善次郎

辻快三
渡辺熊四郎

渡辺佐兵衛
渡辺徹造
島野市太郎
藤沢藤太郎
藤野四郎兵衛
函館汽船(株)


飯田倍三
服部次郎次

平出喜三郎

田中新兵衛
千代吉
伊達基
小野要之助
水勢丸
清徳丸
五洋丸
函館丸
白龍丸
松城丸
五月丸
第3石狩丸
巴港丸
仁壽丸
通鳥丸
矢越丸
花咲丸
福栄丸
康安丸
北島丸
第5兵庫
吉野丸
渡島
北海道丸
北門丸
鴻益丸
宮城丸
回腸丸
錦旗丸
浦島丸
第9観音丸
福島丸
胆振丸
相川丸
16
200
357
295
82
46
87
17
144
244
76
46
91
60
76
18
82
253
75
398
426
133
4
84
333
162
9
57
69
42
西浜町 間半四郎

西沢町 菅原治郎吉
西浜町 能登善吉


西浜町 村田吉之丞
仲浜町 筑前善次郎

仲浜町 辻快三
東浜町 宮本嘉三郎
東浜町 鈴木沢造
末広町 渡辺熊四郎


末広町 平田文右衛門
幸町  渡辺佐兵衛
幸町  板村助右衛門
弁天町 藤沢藤太郎
船場町 函館汽船(株)


豊川町 服部次郎次



船見町 平出喜三郎

天神町 若松忠次郎
蓬莱町 伊藤松三郎

大町  忠谷久蔵
台町  藤村駒吉
天神町 飯田信三
泉沢  田中新兵衛
胆振  小野要之助
十勝  千代吉
留萌  岩田正奇
岩内  岩内汽船(株)
岩内  岩内汽船(株)
岩内  岩内汽船(株)
歌棄  佐藤栄右衛門
滋賀  藤野四郎兵衛
秋田  高橋吉兵衛
新潟  高橋新九郎
石川  山本又三郎
香川  武内徳太郎
水勢丸
松城丸
五洋丸
函館丸
白龍丸
帝国丸
凌波丸
巴港丸
仁壽丸
通嶋丸
康安丸
江差丸
矢越丸
花咲丸
絵柄丸
上磯丸
福栄九
大坂
第5兵庫
渡島
北海道丸
北門丸
宮城丸
回陽丸
都丸
東光丸
錦旗丸
浦嶋丸
清徳丸
五月丸
第3石狩丸
久保丸
南越丸
鴻益丸
第9観音丸
相川丸
福島丸
根室
後志丸
東運丸
北運丸
第11観音丸
芳野丸
鱗得丸
胆振丸
北嶋丸
大亀丸
16
47
357
308
82
99
81
144
248
77
76
87
47
92
68
10
61
54
82
75
398
431
5
85
32
139
334
162
233
87
18
133
55
133
10
42
58
47
94
95
92
38
253
37
70
18
145
渡辺熊四郎

能登善吉
函館汽船(株)

服部半左衛門






平出喜三郎

板村助右衛門
板村勘右衛門
工藤嘉七

西出孫左衛門

前田栄次郎

永野弥平
押野貞次郎
吉田庄作
原田十次郎
高佐清吉
山本久右衛門
山本順治
酒谷長一郎
酒沢岸太郎外1人
宮本嘉三郎外1人
勝田弥吉外1人
斉藤重蔵
石垣隈太郎
田村与七
尼崎伊三郎
能登豊吉外2人
函館運送(株)
飯田信三
北海産業合資会社
沢口庄助
沢口庄助外2名
岩内汽船(株)


秋田汽船(株)

噴火湾汽船(株)

従二宇左衛門
上磯汽船(株)
幌泉汽船(株)
日の丸
福山丸
函館丸
竹の浦丸
北雄丸
北光丸
回陽丸
魁益丸
東光丸
平穏丸
青森丸
札幌丸
錦旗丸
浦嶋丸
渡島
第一丸
茅部
鳳至丸
北海丸
福垂丸
第1大亀丸
第2大亀丸
瀬田川丸
有川丸
第2松前丸
北辰丸
新大漁丸
敦賀
巴港丸
豊漁丸
貫効丸
護全丸
旭丸
隻鶴丸
矯龍丸
恵比須丸
第2敬神丸
千年丸
曙丸
第2新湊丸
筑紫丸
幸明丸
勢至丸
第5肱川丸
東運丸
北運丸
清徳丸
羽後丸
絵柄丸
胆洋丸
万歳丸
上磯丸
帝浄丸
171
181
308
1,272
570
99
82
59
138
125
124
1,139
343
186
86
42
51
38
87
240
98
91
191
34
70
737
15
756
147
89
215
56
13
160
235
148
232
296
19
99
657
267
192
350
115
109
234
1,426
68
88
98
22
88
30
3,984
47
5,352
53
7,201

 明治26年は『函館実業者便覧』、明治28年は伊藤鋳之助文書「船舶表」、明治36年は『北海道奥羽沿海商業之状況』による.
 
 この表をみると船主はまず、函館の船主と函館以外の船主とに二分される。特に日清戦争以降に道内各地から船籍を函館に移し函館を起点として海運に従事するものが続出する。岩内汽船、噴火湾汽船などはその典型的なものであった。また函館の汽船船主についてみれば、個人船主、汽船会社、汽船取扱店ないしは回漕店に三分されるが、個人船主は物産商、委託販売商、米穀商、雑貨荒物商などであり、とりわけ、水産業との関連が深い商人階層に集中している。またその多くは海運専業ではなく自己荷物の輸送を中心としていたが、渡辺熊四郎(金森回漕組)、服部半左衛門、平出喜三郎などは海運事業を自己の経営の1部門とするようになった。海運業に着手した個人の汽船船主のうちから数人の事例をここでみておこう。
 能登善吉は秋田出身で元は山田竹次郎の和船・清浄丸(296石)の船頭をしている(明治6~10年「海外行印紙願書留」札学蔵)。明治13年に西洋形帆船浄丸(31トン)を建造して船主として独立している。18年には2隻の西洋形帆船を所有。函館汽船会社の株主となり、さらに函館運漕舎を興し(『巴港詳景函館のしるべ』)海運業を専業とした。
 服部半左衛門は佐渡出身で慶応3年に父(先代半左衛門)とともに来函し、亀田・茅部で行商し、明治6年から豊川町で水産商をはじめている。いわゆる仕込商人であった。10年に父の死亡により一時本国に帰国。その再来函し14、5年の米価高騰期に際しては仕込み商人で失敗したものが続出したが、服部はその危機を克服した。3県期の不況をのりこえ、明治18年ころには亀田・茅部郡その他の生産者100数十名に仕込みするまでとなった(『北門名家誌』)。25年ころに汽船を東京から購入し、近海の航行に従事しはじめる。その後汽船を買い足し回漕業を充実させた。なお26、28年の史料には次郎次と半左衛門とは服部一族であろうか。この点については明らかではない(28年の『巴港詳景函館のしるべ』には豊川町に次郎次、船場町に半左衛門名が見え、それぞれ物産商として記載されている)。33年には東浜町に回漕店を設立して回漕業の拡充を図っている。ちなみに36年の『北海道案内』には「服部半左衛門君は屈指の豪商にして水産商、物産商、委託販売を営み商業盛大、更に数十艘の船舶を有して商船部を置き回漕を営み営業確実にして信用極めて厚く其声望最も高し…」とあり、また函館魚商会社を創立、区会議員や商工会議所の議員、物産商組合の取締、海運同盟会評議員などの公職についた。
 筑前善次郎は函館出身で先代から付船を職業としていた。明治元年に先代死亡後も家業を継いで明治以降は水夫宿、12年に始めて西洋形帆船を建造し、釧路方面への航路を開いた。15年からは委託販売商に転じた。20年に帆船を建造し、また別に1艘購入、23年にははじめて汽船を建造した。26年には汽船も2隻となり、同時に西洋形帆船を売却している。
 平出喜三郎は石川橋立の出身で幕末から明治初年にかけての商人の和船の船長となり津軽地方の交易に従事した。その後支配人となり、そのかたわら西洋形帆船橋立丸を所有し、15年に独立して函館に移住し仲浜町で海産物、米穀雑貨をはじめた。22年に汽船を初めて所有した。翌23年には択捉で漁業を開始した。26年時点では2隻の汽船を所有して本業の物産商、漁業経営等のほかに回漕業も始めており、広くは北前船主系の人間といえよう。
 個人で船を所有して自己の経営の補完的に利用する場合海運業経営とはいえず、つまり自己の荷物を輸送するだけでは海運業従事者とはいえない。他人の荷物や旅客を運び、それ自体で経営を成立させる基盤を持ち初めて海運業を経営したといえる。したがって函館の個人船主の動向は2つに分けられる。自己用途の所有形態にある船主と海運業者とのそれである。前出の平出、服部、渡辺らは海運部とか商船部とか本業とは別に海運関係の営業部門を持つようになった。それは汽船海運の経営が成立するだけの状況が出現したことを意味するものであった。ちなみに34年6月15日の「蝦夷日報」には平出商店海運部、藤野回漕部、金森回漕組、服部商船部の出帆広告が掲載されているが、まさに彼らは他人荷物の輸送を扱う海運経営者の一団であった。
 明治20年代の後半には汽船船主を主とする「函館回漕業組合」(同末広9)が結成される(29年『函館商工業調査報告』)。また同時期には海運事業の拡張に伴い、これまでの種々の弊害を改良するために函館船主同盟を結成するという記事が登場する(29年11月25日「樽新」)。これは汽船船主が貨客の取扱いなどを回漕問屋に全面的に委ねていたが自立して、自らの権益を獲得するために団体を作ろうとしたものであった。汽船船主の団体結成の動きは汽船船主の自立化、すなわち従来は回漕問屋主導であったものが、汽船海運業の専業化が進んできたことを反映したものであった。この船主同盟会のその後の動向は不詳であるが、35年の『商業会議所年報』に「函館海運同盟会三十一名・東浜町事務所」とあり、これが後身団体であると考えられる。