函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第7章 近代海運の発達と北方の拠点港

第4節 汽船主導の海運界

3 不定期航路と函館の船主

 このように順調な海運事業を展開していたが25年1月に、釧路港内で流氷のため雷電丸、恵山丸が沈没あるいは破壊され、また同じ年に十勝で神威丸を海難事故で失い、わずか1年のうちに3隻11万円余の損失となった。ちょうど渡辺が洋行中での出来事であった。矢越丸、花咲丸と2隻のみになり営業に大きな困難を来した。そこで再び新造船、購入と再投資して船舶を整えることにした。函館造船所で絵靹丸(約150トン)、末広丸(287トン)を建造、木の川丸(約100トン)、日の丸(約280トン)を購入して30年ころには再び6隻の陣容での体制を整えた。このように新規に汽船を購入できたのもおりからの海運の好況に支えられてのものであった。
 30年代に入ると北海道庁の補助航路の一つである函館・大津間の航路を受命するようになる。道庁は函館・広尾・大津間の航路を道東方面の移民の入殖ルートとして重視するようになった。そこで明治30年度から3000円の補助金を支出して民間の海運業者に定期航海を開かせることにした。初年度の30年度こそ函館豊川町の服部次郎次が落札して恵比須丸で定期航路を開いたが、翌31年度の入札では渡辺熊四郎名義(入札者、受命者は金森回漕組としてではなく渡辺個人であった)で服部次郎次と競って落札した。この入札方法は就航船舶の噸数と速力とに一定の基準を設定して、その条件を満たした上で貨物旅客運賃のより廉価なものに決定するという仕組みであった。31年3月15日函館支庁で行われた入札会で渡辺熊四郎が落札した乗客運賃は函館・広尾が2円、函館・大津が2円20銭であった。移住民はその半額と定められたほかに月別の航海数(当初は夏期と冬期では航海数は異なっていたが、まもなく月5回となった)を指示されてそれを遵守しなければならなかった。渡辺はこの航路に末広丸を充て以後連年入札を勝ってこの航路を請負った。35年8月にこの航路を航海中の末広丸が襟裳岬沖合で沈没するという事故が発生した。幸い船体保険や貨物に海上保険を付けていたため被害額が少なくて済んだ。この事故後ただちに代船として日の丸をあてたが、これ以降は日の丸、福山丸の2隻が就航した。また同年からほかに函館の能登豊吉と石垣隈太郎も受命して4隻の船舶で運航されたが、それはこの航路の重要性が高まってきたことを意味したのである(『第三回航通運輸ニ関スル報告』)。