函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第7章 近代海運の発達と北方の拠点港

第3節 地場海運の勃興と二大海運資本の競合

1 北海道運輸会社の設立

 
 表7-13 北海道運輸会社船舶運航数・収支
種別
船名
析海数
運賃収入
航海費
損益
汽船玄武丸
矯龍丸
函館丸
沖鷹丸
福山丸
17
34
26
33
15
48,815
23,381
30,907
5,319
5,132
26,923
17,128
20,555
5,231
5,042
21,892
6,253
10,352
88
90
帆船乗風丸
清風丸
西別丸
単冠丸
千島
第1石狩丸
第2石狩丸
第3石狩丸
第4石狩丸
5
6
6
5
貸切



4,455
6,120
4,572
3,214
131
210
286
180
181
2,820
3,646
3,121
3,349
385
99
353
57
60
1,635
2,474
1,451
△135
△254
111
△67
123
121
 
147
132,903
88,769
44,134

 明治15年『北海道運輸会社事業報告』より
 単位:円、単位未満切り捨て
 
 4月から合併する12月までの9か月間におよぶ営業内容、その概略を明治15年『北海道運輸会社事業報告』によって知ることできる。まず船舶ごとの運航回数および収支は表7-13のとおりである。玄武丸は貸与された船舶中、最大規模のもので輸送能力は大きかったが、他の汽船に比べて運航数が少ない。それは8月から10月の間に政府に徴用されたという事情によるものである。また表中の汽船福山丸は同社で購入した唯一の船舶であり、15年1月横須賀の海軍省造船所で建造されたもので、これは高浜某の発注によったものであったが、同人の都合により権利譲渡されたものであった。
 福山丸は10月に購入されてから、福山、江差、青森と近海航路に就航していたが、12月17日青森行きの航海中、津軽半島に面した奥平村地先海面で沈没するという事故に見舞われている。この船は72トン、購入費は3万7000円で2万2000円の未払いがあったが、その債務は幹事の園田実徳の奔走で合併後の共同運輸会社に引き継がれた。
 各船ごとの収入は玄武丸が航海数の割りには高収入をあげているが、それは同船が長距離輸送の航路を担当し、かつ大型船で輸送量が大きかったことによる。1航海の平均収入2871円と玄武丸がトップであった。汽船は矯龍丸を除き、いずれも収入が支出を上回っているのに対し、帆船は3艘収支損となっている。千島丸以下5艘の帆船は貸し切りとなっているで、漁業経営者によって1船ごとに漁場への物資輸送あるいは収獲物の函館への回漕に用いられた場合が多いと考えられる。運賃収支全体では4万4136円の利益を出している。
 ちなみに、明治15年における運賃収入を三菱会社のものと比較してみると、北海道運輸会社が13万2911円に対し、三菱会社函館支社の運賃収入は39万9357円(『三菱社誌』第9巻)であった。北海道運輸会社は営業期間は9か月足らずで三菱の3分の1にあたる運賃収入をあげている。これは新興の海運会社の初年度の成績としては上々であり、また三菱には少なからぬ打撃を与えたであろう。発起人層を中心に顧客獲得の努力が払われ、従来の三菱から北海道運輸会社へのくらがえということも盛んに行われた結果と考えられる。
 損益勘定は収入13万5372円で98パーセントが運賃収入であった。北海道運輸会社は創立の事情からいっても三井と関係を持っていたわけで、そのことは東京風帆船会社の代理業務を行っていることからも明らかであるが、この収入のなかには扱船手数料も含まれており、東京風帆船会社の船舶分もある。支払の部は11万0874円で、船費が80パーセント、社費が約10パーセント、他に東京、小樽の支店費など、差引で2万4498円の総益金を計上した。
 ところで北海道運輸会社の営業航路や各船舶の就航状態はどうであったろうか。同社の事業報告はこの点については特に触れていないが、「函館新聞」は船舶出入を報道しているので、それによって動向をみてみよう。ただし帆船は不明である。汽船の出入りは100回余にわたり報道されている。それらのうち3分の1は青森行きである。沖鷹、矯龍丸両船が主にこの航路に就航している。この他道外航路は東京が6回あり、いずれも玄武丸によっている。これ以外はほとんど道内の航路であり福山が最も多い。これは株主のうち福山在住者が最多であることと関連しているかもしれない。他に厚岸根室、小樽、浜中など道内16港を数え、道内輸送に果たした役割は大きかったといえよう。対道内航路への比率が高いということは会社創立の意図を体現したものであった。青森との航海数が多いのは、移民の輸送といったことも含めて経済的な結びつきの強さが反映していた。なお、同社の取り次ぎ業務は当初は運漕社、その後に仲浜町の土方栄次郎と北海道運輸会社の支配人でもある東浜町宮路助三郎の両回漕店も受託するようになった