函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第7章 近代海運の発達と北方の拠点港

第2節 三菱会社の北方進出

2 海運独占への道

 以上のような貨客の確保を実現し、かつ貨客量の増大に対応するために三菱では種々の施設整備や様々な補強策をとった。まず輸送関連部門では12年7月に艀船5艘を中央から函館支社に移した。従来の荷役作業は回漕問屋に全面的に依拠していたが、その一部を直営化しようとしたためである。次いで倉庫建築に着手した。特に函館の場合は道内各地から海産物を集荷し、府県へ出荷するまでの間、保管用の倉庫が必要であった。また回漕された荷為替付きの貨物に対する担保貸付をするための倉庫も必要となってきた。こうした業務は運輸業の補強にもつながったのである。このためまず同年4月税関の構内を借り受け上屋を建築した。しかし、時あたかもインフレの進行による景気上昇という事態を呈していたため倉庫不足の解消にはつながらず、10月には愛宕丸を繋留して倉庫船とした。この愛宕丸は1万5000石の収容能力があった(12年6月9日「函館新聞」)。このほかに函館市中の商人から土蔵を購入している。
 また翌13年2月には幹事石川七財が来函し、船場町の官有地に倉庫を建設するために願書を提出した。前年12月の大火を契機に函館支庁が街区改良事業に着手し、船場町を倉庫用地に指定したため、いちはやくこの動きを知った三菱が同町官有地のうち4000坪の用地を借用し、さらにその敷地内にあり開拓使が購入することになっているイギリス商人ブラキストン名義の家屋を購入予定の原価で払い下げることを求めた出願内容であった。三菱保護路線を基調とする開拓使は同月28日付けでこの出願を許可している(「開公」5911)。この一角が三菱の函館における根拠地となり、それは後に日本郵船へと引き継がれたのである。倉庫建築は新社屋の建築と同時に進められたが、14年1月ころに着工され2年の歳月をかけて15年11月竣工した。5800坪余の敷地に煉瓦倉庫が15棟(1棟112.5坪平均)、倉庫群の間に間口9間、奥行60間の堀割を通した。これは艀による積み卸が迅速に行われるようにするためであった。この工事はフランス人のレスカスが設計・監督し、ドイツ人ボーケルが工事の補佐をした。社屋も12年の大火後東浜町にあった仮社屋をこの船場町に移転した。また工事全体の責任者は石川七財があたっていたが、15年7月東京で死亡した。このため17年7月に堀割に架設された橋を故人にちなんで七財橋と命名した。
 また倉庫建築にとどまらず、倉庫機能を円滑にするために為替行為を付帯させて事業の拡張を図っている。それが12年8月に制定された「荷為替規則」であった。これまで大阪・東京間のみ取り扱っていた荷為替を本社・支社間にも及ぼして、社船に積載する貨物を担保として荷為替金の貸付を行うことにした。規則第2条には抵当とすべき商品に米穀と並んで北海道産出の〆粕、干鰯があげられており、また事業の目的として為替業務による利益を期待するのではなく、自社の海運業を補強するものであるとのべている。特に北海道の場合は、金融の便が少ないこともあり、三菱が北海道に注目しているのがわかる。
 翌年3月に、この為替事業を「三菱為換店」として三菱会社より独立され別組織として、為換、荷為換、預金、貸付、倉庫業務を持つ企業体とした。5月8日に函館支社にこの為換店の支店を設置した。為換店の支店は全国の三菱の各支店所在地に置いたが、15年2月の各支店の資金額をみると函館は本社の85万円に次いで、25万円であり、他の10支店に比べて優越している。また為換店の肥田昭作は「函館に出張し年一割二分の利息にて荷為替を貸付ける事としたるに、各荷主等は殆んど残らず三菱会社の金を借らんと申来る様になりたり。(中略)斯くの如く北海道方面に力を注ぎ地方産業発展の為めにも大いに尽力した為め、北海道産物が俄に著しく発展増加し…」(『三菱銀行史』)と述べて相当その効果を上げたとしている。ちなみに函館での荷為替の業務の一端をみると15年7月末で前に述べたいわゆる東京商人である仲栄助、三浦作次郎や、漁業家の栖原小右衛門など14名に17万円弱の貸付をしており、担保の大半は北海道の海産物で占められていた(『三菱倉庫史』)。