函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第7章 近代海運の発達と北方の拠点港

第1節 明治初期の海運事情

5 函館商人の海運活動

 明治初年の函館における船舶所有はどのようになっていたであろうか。明治6年の例でみると、全体で937艘あり、内訳として中遣船以上が170、三半船が18、筒船7、筒替船107、持符船231、磯船473、橋船造10、平田船21であった(「上局検印済綴込」道文蔵)。この時期の函館の船主は、本業を補完する、すなわち自己の貨物を輸送することを目的とした和船所有が一般的であった。
 ところが前に述べた開拓使の大型和船建造の措置は結果として函館の商人の西洋形帆船の建造をうながすことになった。また10年前後から好景気が続き、地元商人に船舶所有の意欲を持たせたことも西洋形帆船の所有を増大させた。経済的な活況は開拓使が建造資金の援助措置をしたにもかかわらず、大半は自己資金によって建造している。あわせて、旧来の和船所有者は西洋帆船にきりかえ、またこの時代に急成長してくる新興商人が続々、建造し始めた。また函館の造船界の受注体制の確立もそれに拍車をかけたが、建造ブームは一層活発となり時には函館市中の4造船所だけでは対応しきれず青森県下あるいは室蘭での建造する場合も多かった(明治13年度「函館商況」道文蔵)。
 表7-8は開拓使時代において函館を定繋港とした西洋形帆船の一覧である。それによれば函館で最初に西洋形帆船を所有したのは小林重吉であった。明治5年11月小林は常燈船として利用されたことのある信敬丸の払い下げを運上所に出願し(「評議留」道文蔵)、翌6年3月許可を得て、辻造船所で修繕、改造をして虎久丸と改名して自己荷物の回漕に利用した。虎久丸は74トン、安政元(1854)年製造のもので乗客60人、貨物輸送の場合は1万3200貫目搭載可能であった(「開公」1171)。用途はもっぱら小林が漁業経営をしている日高の三石との航海に充てている。小林は幕末期に和船を所有しており、海運事情には強い関心を抱いていた。
 
 表7-8 開拓使時代の函館定繋の西洋形帆船
船名
登簿トン数
船主
船主本籍
製造費
製造年月
製造人住所・氏名
高宝丸
禧丸
三徳丸
北都丸
長者九
大栄丸
環光丸
二番明通丸
続丸
善歳丸
一十丸
観陽丸
美徳丸
虎久丸
北海道丸
日高丸
三徳丸
蜻蜒丸
天静丸
明達丸
妙運丸
長良丸
開運丸
栄福丸
三石丸
金袋丸
豊福丸
神徳丸
根室
東洋丸
倭九
北栄丸
明寿丸
鶴賀丸
弘済丸
久保丸
観降丸
順天丸
仁風丸
隼丸
東昇丸
雌阿寒丸
蒲浦丸
長運丸
久玉丸
金多丸
高砂丸
旭丸
亀田丸
幸福丸
久徳丸
美徳九
大神丸
金生丸
栄宝丸
正丸
清吉丸
福栄丸
雌雄丸
翔鳳丸
富山丸
渡島
善宝丸
橋立丸
一番明通丸
都丸
環球丸
五洋丸
雷光丸
永寿丸
松尾丸
雄阿寒丸
長高丸
広永丸
東珋丸
幸甚丸
喜悦丸
金剛丸
石川丸
末広丸
豊永丸
地蔵丸
受祐丸
北瀛丸
根室
大栄丸
清浄丸
翁栄丸
慶喜丸
樺太
浄丸
日吉丸
幸丸
長運丸
栄勢丸
環運丸
敦賀
新日高丸
昌盛丸
亀子丸
栄昇丸
文明丸
様似
明栄丸
讃岐丸
福栄丸
釧路丸
三石丸
妙幸丸
宮内丸
北開丸
末広丸
天静丸
新雄阿寒丸
長神九
日光丸
広島丸
叶九
人雲丸
玉鳥丸
金龍丸
74
124
38
26
76
21
23
23
34
31
51
62
88
49
12
81
26
49
78
83
29
65
110
60
104
68
66
62
76
31
41
119
126
96
24
56
44
68
38
28
44
66
80
43
32
52
47
65
186
138
53
40
109
70
92
92
53
51
35
116
135
80
41
40
80
25
84
136
65
67
48
105
121
64
64
55
62
9
78
39
64
21
59
87
18
58
59
40
26
48
31
56
51
60
66
46
30
53
30
60
109
56
42
87
50
46
80
97
15
29
88
73
37
83
18
49
54
95
32
28
57
高杉仲太郎
乾作右衛門
飯田重助
大鍛治善右衛門
桂吉兵衛
松井定兵衛
穀田運蔵
太刀川善之助
筑前善次郎
田中正右衛門
荻野喜兵衛
木村義孝
高橋七十郎
伊藤春吉
小林重吉
一戸久蔵
角尾和三郎
飯田垂助
中野善兵衛
竹田茂兵衛
小松善七
角谷新七
八木六兵衛
安藤利助
浜野与三郎
小林垂吉
国領平七
水野利兵衛
奥村忠兵衛
武田茂兵衛
藤野喜兵衛
藤野喜兵衛
仲栄助
朝山半右衛門
木村義孝
矢本藤五郎
藤本太四郎
木村義孝
本多貞三郎
村田駒吉
田中正右衛門
大針喜兵衛
三浦作次郎
加藤林吉
中村金左衛門
忠谷久五郎
藤野嘉市
三井銀行出張
山田竹次郎
本吉長三郎
渋川冨次郎
忠谷久五郎
美濃徳三郎
石川喜八
仲栄助
奥村忠兵衛
佐野平右衛門
長岡喜八
木村幸太郎
飯田治作
中西友吉
小林重吉
三代沢芳平
西沢弥兵衛
平出喜三郎
太刀川善之助
中野善兵衛
遠藤吉平
藤野喜兵衛
杉浦嘉七
山田竹次郎
松岡与八郎
渋田幸吉
長岡喜八
仲栄助
大針喜兵衛
藤野喜兵衛
金丸徳右衛門
米木権右衛門
島野市郎次
塚本元吉
渡辺左兵衛
相馬理三郎
小西八郎兵衛
大針喜兵衛
河合源太郎
新津兵五郎
仲栄助
亀井嘉市
沓掛民吾
能登善吉
山田竹次郎
相原寅之助
本間吉蔵
仲栄助
永野弥兵衛
相馬哲平
小林重吉
辻松之丞
島野市郎次
仲栄助
春木甚三郎
相馬哲平
仲栄助
岡七郎兵衛
白神京一郎
中戸川平太郎
三井銀行出張
小野寺辛次郎
山崎信太郎
佐藤栄右衛門
北海道帆走船会社
岡部米吉
三浦作次郎
山本巳之助
中村金左衛門
岡幸三
朝山兵右衛門
中川庄太
白上京一郎
長岡喜八
函館
福山
石川
函館
愛媛
東京
新潟
函館
函館
東京
函館
函館
函館
東京
様似
東京
函館
函館
京都
函館
浦川
様似
大阪
浦川
東京
函館
函館
新潟
東京
新潟
函館
石川
大阪
函館
函館
函館
函館
石川
函館
函館
京都
函館
函館
函館
函館
函館
函館
函館
函館
函館
石川
函館
愛媛
新潟
函館
函館
函館
函館
函館
函館
京都
新潟
岡山
茨城


函館
滋賀
函館
函館
函館
函館
函館
浦川
秋田
東京
函館
岩手
函館

青森
函館
新潟
函館
新潟
愛媛
新潟
京都
函館
長野
秋田
函館
函館
石川
京都
函館
函館
函館
函館
函館
京都
函館
函館
京都
愛媛
岡山
東京
函館
函館
函館
歌棄
函館
石川
東京
神奈川
函館
愛媛
函館
函館
岡山
函館
2,050
5,000
1,800
1,340
1,750
1,050
500
1,030
1,515
1,500
2,300
4,500
不詳
2,300
93
不詳
450
3,500
4,000
3,600
1,200
1,850
3,200
2,250
2,500
4,500
3,570
1,900
4,450
1,500
2,000
5,200
不詳
2,100
1,801
3,350
530
2,900
2,385
800
1,700
3,500
2,250
2,250
830
1,000
2,600
7,500
12,000
6,500
2,500
1,950
3,650
3,500
7,000
4,500
2,700
3,000
2,000
5,450
12,000
5,700
2,571
1,500
1,756
901
6,353
5,500
5,150
2,700
2,700
8,200
6,575
4,500
3,770
3,500
5,570
511
6,558
1,300
4,200
535
6,201
6,500
1,650
2,500
4,200
400
1,200
3,550
1,900
3,000
不詳
4,500
1,825
3,500
3,400
6,300
3,850
2,000
9,760
3,685
3,873
8,000
3,500
3,500
4,500
2,500
500
350ドル
8,857
6,500
3,050
3,300
550
5,050
3,500
7,500
1,500
2,000
4,500
6.2
7.
8.8
9.1
9.2
9.4
9.4
9.5
9.6
9.6
9.7
9.7
9.8
9.9
9.10
10.2
10.3
10.5
10.5
10.6
10.6
10.6
10.6
10.7
10.8
10.10
10.10
10.10
10.10
10.11
10.12
11.1
11.1
11.1
11.3
11.4
11.5
11.6
11.6
11.6
11.6
11.6
11.7
11.7
11.7
11.7
11.8
11.8
11.8
11.8
11.8
11.9
11.9
11.10
11.10
11.10
11.11
11.12
11.12
12.2
12.4
12.4
12.4
12.5
12.5
12.5
12.5
12.5
12.6
12.6
12.6
12.6
12.6
12.7
12.7
12.7
12.7
12.7
12.8
12.8
12.9
12.9
12.10
12.10
12.10
12.10
12.10
12.10
12.10
13.1
13.1
13.2
13.3
13.3
13.3
13.4
13.4
13.4
13.4
13.4
13.4
13.6
13.7
13.7
13.7
13.8
13.8
13.9
13.9
13.9
13.10
13.11
13.12
13.12
14.1
14.4
14.5
14.6
14.7
14.7
14.10
函館
函館
函館
函館
君沢
函館
函館
函館
函館
函館
函館
函館
君沢
函館
川内
函館
函館
函館
函館
函館
函館
川内
大阪
川内

函館
函館
函館
函館
函館
川内
大阪
大阪
川内
川内
函館
大阪
大阪
脇沢
川内
川内
川内
函館
安渡
安渡
土崎
函館
函館
函館
函館
川内
室蘭
東京
函館
函館
川内
函館
川内
川内
安渡
函館
函館
伊豆
函館
室蘭
室蘭
大阪
大阪
函館
室蘭
函館
函館
大阪
函館
川内
川内
川内
川内
函館
函館
川内
野辺地
室蘭
函館
函館
川内
安渡

川内
函館
川内
室蘭
兵庫
川内
大湊
函館
函館
函館
函館
函館
函館
大湊
大湊
大湊
大阪
函館
大湊
兵庫
川内

紋別
川内
函館
函館
川内
川内
函館
函館
函館
川内
函館
辻松之丞
トムソン
辻松之丞
島野市郎治
鈴木茂七
島野市郎治
島野市郎治
続豊治
続豊治
トムソン
辻松之丞
辻松之丞
福沢辰造
辻松之丞
山田忠作
トムソン
島野市郎治
続豊治
続豊治
続豊治
島野市郎治
浦柳忠吉
三原寿太郎
山田忠作
外国船
辻松之丞
辻松之丞
辻松之丞
統豊治
島野市郎治
山田忠作
三原寿太郎
永田三十郎
柳作造
鈴木市蔵
トムソン
三原寿太郎
宮越仁三郎
松井忠助
山田忠作
三原定兵衛
山田忠作
島野市郎治
鈴木実吉
佐藤仁太郎
飯山三郎兵衛
続豊治
辻松之丞
トムソン
続豊治
浜中鉄之助
玉谷万次郎
福沢辰蔵
辻松之丞
続豊治
山田忠作
島野市郎治
山田忠作
大野石五郎
鈴木寅吉
続豊治
トムソン
岩田庄吉
鳥野市郎治
間作源吉
間作源吉
三原寿太郎
戸田庄次郎
辻松之丞
吉田治作
統豊治
島野市郎治
兵野半三郎
トムソン
山田忠作
天野忠右衛門
浦柳忠告
鈴木市蔵
続豊治
島野市郎治
山田忠作
大野熊蔵
吉田治作
辻松之丞
トムソソ
浦柳忠吉
銘木寅吉
外国船
中松由五郎
続春吉
鈴木市蔵
間作源吉
樋上権兵衛
浦柳忠吉
工藤金兵衛
島野市郎治
辻松之丞
統春吉
辻松之丞
島野市郎治
杉沢利吉
松井忠助
浦柳忠吉
鈴木市蔵
小池安兵衛
島野市郎治
山田忠作
桃木武兵衛
大野辰五郎
外国船
岩田庄吉
山田茂次兵衛
島野市郎治
辻松之丞
松井忠助
山田忠作
トムソン
続春吉
島野市郎治
鈴木市蔵
続春吉

 村尾元長「北海道洋船沿革考」より
 外国船は購入費
 

小林重吉所有 三石丸 明治15年8月「開港以降入進外国船及西洋形日本船略図」新潟県立図書館蔵

 
 また彼は航海術の必要を痛感していた人物でもあった。和船から西洋形帆船への移行と平行して、和船船頭から洋船船長になっていく過程のなかで、従来の乗組員がそのまま、西洋形帆船へと乗り移ったと考えられるが、同時に西洋形帆船を運航するための技術を要求された。小林はその必要をいち早く認め、日高に航海技術を習得するための学校を開いたり、函館でも夜学で航海技術者の育成につとめ、これが函館商船学校へと発展していったのである。この商船学校の成立や運営については第10章第3節に詳しい。
 西洋形帆船の建造は9年から活発になり、毎年増加傾向を続け、12年には、実に39艘もの新建造あるいは購入により函館の定繋船が増えている。建造ブームは函館の造船所だけでは対応しきれなくなり、室蘭や森をはじめ、青森県下の造船工(彼らは大半は辻松之丞について技術を学んだものであった)に発注するものも年々増加していった。
 船主を個別にみると半数は函館以外を本籍とする商人であるが、それらの多くは函館を根拠に商業活動をしている。西洋型帆船の最初の所有者は前述したように小林重吉を最初としているがその所有者は一体どのような階層であろうか。
 まず函館本籍の船主をみると小林重吉藤野喜兵衛杉浦嘉七は旧場所請負人で、明治期にも引き続き漁業経営者であった。また田中正右衛門は旧問屋であり、この時点では問屋業をはじめ銀行役員、そして道東の漁業経営者でもあり、旧来の特権的商人でありながら、すでにその域を脱していた。また田中は13年ころは2艘の西洋帆船と3艘の和船を同時に所有していた(「船税領収之證」)。田中以外の旧問屋商人の帆船所有は見られない。それはこの造船ブームともいうべき時期はもう旧問屋商人の衰退が進んでいたためであり、田中は例外的な存在であった。こうした階層はかつての和船所有者でもあった。その他の商人の大半はこの時代に登場してきた新興商人階層が多いということである。そのなかでも「東京商人」と呼ばれた本州から進出してきた海産物の買い付け商人が目立つ存在であり、特に仲栄助は7艘所有しており群を抜いた存在であった。仲栄助の他に三浦作次郎、沓掛民吾、飯田重助、角谷新七などが同じ「東京商人」と呼ばれた商人群である。この他に相原寅之助、永野弥兵衛、中村金左衛門、山田竹次郎といった樺太漁業家の存在が顕著である。彼らの経営動向は第9章第4節で詳述されているが、函館と樺太航路は10年ころまでは和船によるものが主流であった。例えば明治9年では23隻中、20隻、翌10年では29隻中25隻が和船であった(「開公」5913・5914)。しかし、彼らが樺太航路に所有の西洋帆船を就航させるようになり徐々に西洋型帆船による航海が増加している。明治12年度「函館商況」(『函館市史』史料編第2巻)には樺太便の帆船が23艘、1229トンと増加しており同書には「従来我人民日本形船ニテ往復スルニ慣レ、当道ト相去ル遠カラズ、今尚漁業出稼スルモノ少ナカラザルヲ以テ、年々往復ノ船舶アルモノトスト雖ドモ、西洋形船往復ノ増加、本表(略)ノ如クナルハ亦タ以テ航海ノ歩ヲ進タルヲ徴スルニ足レリ」と述べて帆船の増加を強調している。
 西洋帆船の所有者の特徴としては(1)従来の特権的な商人を含む船持ち商人が西洋形帆船に切り替えている場合、前記の場所請負人問屋以外では国領平七など、(2)この時代に成長して海運手段を手に入れるようになった新興商人階層、とに二分することができる。そしておおむね海産物流通にかかわりを持つ商人の比重が高かった。もちろん函館において西洋形帆船から和船へと一気に移行したわけではなく、和船・西洋形帆船を同時に所有して海運活動した商人も存在している。
 この時代に建造された西洋形帆船は100トン未満のものが多い。布達では74トン(500石)以下の和船を建造することは可能であったが、実際には布達に抵触しない500石未満の小型船でも和船ではなく西洋形帆船を建造したのであった。それは、函館の船主は全道各地から少量の物産を搭載し函館に集荷したり、または近隣地に運送する場合は小型船のほうが有効であったといった事情や、建造費用も比較的安く小型船を建造するという傾向が高かったためである。さらに資力があり東西各地に航行するものは100トン以上のものを建造している。このように西洋帆船の奨励や函館の商人の受容といったことから在籍船数は飛躍的に増加した。ちなみに表7-9は函館支庁管内における船舶表であるが9年以降の西洋形帆船の増加は函館港の増加を端的に反映したものとなっている。
 また函館の船主に限らず道外の船主も、三菱の日本海沿岸航路に刺激されて明治12年に北前船主広海二三郎が西洋帆船を採用したのを先駆として、北前船の洋式化も進み始めた。新潟、秋田、石川、岩手諸県の北海道貿易に従事する有力な商人も西洋帆船の製造者が増えている。こうした諸般の事情から従来和船に搭載して出入りする物産を西洋帆船に転ずるようになり、当年和船の出入が減少しているのもそうした事由によっている(明治13年度「函館商況」道文蔵)。
 
 表7-9 函館支庁管内船舶表
年次
汽船*
帆船*
日本形(石)
1001
501
~1000
201
~500
51
~200
50未満
明治5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
0
0
0
0
0
0
0
1
0
1
0
1
1
1
13
33
45
70
86
84
0
0
6
7
7
7
10
8
7
8
0
0
53
75
73
73
60
55
53
49
0
0
53
58
62
63
60
41
123
40
0
0
383
345
363
318
257
254
145
161
3,581
12,614
13,722
14,640
15,741
16,950
17,286
18,157
18,246
21,091

 『開拓使事業報告』第4編より
 * ともに200トン以下