函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第7章 近代海運の発達と北方の拠点港

第1節 明治初期の海運事情

4 用達商人による海運業

 開拓使の用達は保任社とは別に運漕社を設立した。保任社が海上保険を担当したのに対して、運漕社は北海丸の貨客の取り継ぎ業務を担当した。これはいわば回漕問屋的業務を行うものであった。
 明治6年1月に「乗船人并冲合荷物取扱規則」(全20条)と東京・大阪間、東京・函館間・大阪・函館間のそれぞれの乗船運賃(3等制)や70品目に及ぶ貨物運賃を定めた。70品目のうち鱈、鱒、鮭、鰤、昆布、〆粕、干鰯、干鯣、干鮑煎海鼠、馬牛、棒鱈に石炭の11品目が函館からの移出品であり、それ以外はすべて移入品に関するものである。運漕社の函館支店は前に述べたように同年4月保任社と同じ場所に同時に開業した。運漕社は北海丸の非保険の荷物を扱うのみならず海運会社としての形態を備えるようになった。3月には汽船廻漕丸を購入し、通済丸と改称して函館・東京間の航海に充てたほか、汽船廻善丸は函館に定繋して小樽や近海への航行用、帆船弘業丸は函館から上海便として活用(「諸局往復留」道文蔵)、この他に後には汽船全済丸(当初は田中次郎左衛門の所有)も購入して北海道航路に充てるなどして海運会社としての広範な展開をみせた。運漕社は前に述べたように開拓使用達の事業の一部門であったが、明治7、8年に用達の中心でもあった小野、島田両組が破産したのに対して運漕社の業務のみは保任社の解散後もその機能を継承して、開拓使の付属船や自社船あるいは他社の船舶の取り扱いをして収益をあげた唯一の事業であった。
 ところで同社は貸付会所から資本金を仰いで、前に述べた汽船あるいは帆船の購入をしている。しかし11年に貸付会所が閉鎖したため運漕社は貸付金の返納を求められて岐路にたたされた。そこで翌年に用達のうち笠野熊吉と田中次郎左衛門の2人は事業を継続しようとして両名で運営する旨の願書を提出した。笠野は開拓使東京出張所あて(「貸付所閉鎖御用留」道文蔵)、一方函館では田中治郎左衛門代理岡武兵衛が函館支庁あてに函館運漕社永続願を提出した(「旧開拓使会計書類」7032)。
 笠野の願書によれば運漕社の拝借金10万6000円余は旧開拓使用達で負担すべきものであるが、これは自己で引き受けると述べた後、これまでの同社の経営状態に触れ、北海道人民の信任を得るに従い、その利便を図るために帆船2艘を購入したが、2艘とも沈没、また通済丸や全済丸も数度の修繕に経費を要したなどと窮状を述べている。この他に笠野は三菱が年々巨額の金員特許を官より受けており、当社も幾分かの補助を仰ぎたいとしている。開拓使は三菱とは同列には論じられないとして補助の件は却下するが、拝借金を長期年賦で返却することを命じた上で新たに資本金として10万円を貸し付けることにした。こうして笠野と田中の共同経営がなされるようになったが、開拓使時代の終わりころの運漕社の函館支店の営業成績を見ると13年の上期で貨物が約6万5000石、船客が約1万3000人で運賃収入が6万5000円余、13年7月から14年6月までが約12万石、約2万9000人で約14万円(明治13年度「函館商況」道文蔵)と三菱会社の全盛時代に入っていたが、これに対抗して健闘している。3県期に入ると経営陣の交替があり田中次郎左衛門の名代であった岡武兵衛が社長に就任した。