函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第6章 内外貿易港としての成長と展開

第5節 商業機関の整備と米穀塩海産物取引所の成立

1 商業機関の整備

 開拓使が廃止され、函館県他2県が設置された翌年にあたる明治16年3月12日付の「函館新聞」に、山本忠礼、工藤弥兵衛、林宇三郎、枚田藤五郎、杉野源次郎、石田啓蔵、納代東平の7名が発起人となった「函館商人大懇親会」なるものの開催広告が掲載されている。
 
 表6-40 会議所創立委員
氏名
業種別
泉藤兵衛
野田喜十郎
松岡幸七
金沢弥惣兵衛
相馬理三郎
田中正右衛門
村田駒吉
小川幸兵衛
山本和三
藤野喜兵衛
渡辺熊四郎
今井市右衛門
菊地次郎右衛門
岩船峯次郎
常野正義
渡辺儀三郎
銀行・会社代表
  〃
物産商代表
  〃
  〃
漁業産畑産業代表
  〃
  〃
  〃
  〃
「舶来品」代表
  〃
呉服商代表
  〃
小間物商代表
  〃

 明治16年3月16日「函館新聞」より.
 
 3月14日午後1時、蓬莱町中島楼において開催されたこの集会は、区内の諸会社、銀行、官吏、諸産業の代表者たち「百三十余名」が参加して極めて盛況であったが、まず発起人代表として「能弁」の山本が函館区や北海道内の不景気について演説し、その打開策として水道工事等の「土功等を起すか、先商法会議所を設立するにあり」(明治16年3月16日付「函新」)と熱弁をふるった。次いで、函館新聞を発行する北溟社々主の伊藤鋳之助や区長の林悦郎が祝辞を述べ、さらに泉藤兵衛は「昆布の事」、渡辺正七は「商法会議所を起すの説」に賛成の演説を行なっている。そして最後に山本が会議所設立に関する決をとり、参加者の圧倒的支持を得た上で、会議所の設立委員を投票で選んでいる。そのメンバーに選ばれたのは、表6-40に掲げた16名の人びとであった。
 この他、設立委員には、前記の「大懇親会」の発起人7名と野村正造、平出喜三郎、渡辺正七、丸茂喜代吉、吉崎清七、伊藤鋳之助の6名、計13名が追加されている(明治16年3月18日付「函新」)。
 この懇親会から2日後の3月16日には、前記の設立委員による最初の委員会が「すさまじき風雨(あらし)」をついて末広町の森善で開催され、山本忠礼より提案のあった次の5点について議決した(同前)。
 
1、商法会議所創立仮事務所を設立すること
2、創立委員の中から山本忠礼、石田啓蔵、納代東平の3名を選んで幹事とすること
3、創立費はすべて田中正右衛門と藤野喜兵衛が立替すること
4、この会議所は物産改良を最大の目的とするものであるから、その参加範囲は函館区に限定せず、広く函館県内にまで拡大すること
5、来る3月18日に再会し、将来構想や事務所の建築問題について決定すること

 
 このように、明治13年前後の時期と同様に、この16年初頭の段階においても、函館における商法会議所創立問題は関係者によって極めて具体的な所まで決定しながら、その後遂に会議所の創立された形跡は確認できない。
 その理由はいろいろと考えられるが、まず第1点として、明治13年段階は別として、この16年の時点においては、全国的にみてもはや商法会議所設立の気運は著しく退潮しており、会議所の勧業会組織への再編成が進行しつつあったことが挙げられよう。こうした全国的動向に加えて、第2点としてはこの函館における商法会議所設立運動の中心的存在であった山本忠礼が、この16年末に函館を去っていることも(永井秀夫編『北海道民権史料集』第4編)、決して無関係とは言えないであろう。
 かくして、函館商法会議所の設立問題は、明治10年代における2度の機会を生かすことなく流産してしまったのである。